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モン・サン・ミシェル巡礼の真相

2025/06/21

雑記

t f B! P L

本ブログのイザボーはかれこれ半年以上、パリの城門の前に留まったまま。鋭意、入城準備中です。
久々になる今回は、過去記事に急遽、補足しなければいけないことが出てきたので、そのことについて考察したいと思います。

現代のモン・サン・ミシェル修道院。
中世当時とはかなり異なっている。
YoannSによるPixabayからの画像

巡礼に送り出したのは、実子か従者の子か

教科書や本に載っている「歴史」。
普通の人には、入手や読解もおぼつかない古い史料を、研究者や学者の人がまとめ、これはこうなのだと決断を下して、活字になって、ようやく世に出てくるものであると思いますが、このたび「歴史」の難しさと、一個人の限界を再認識する出来事がありました。

ヤン・グランドー先生の論文を読み直していたところ、イザボーが王様シャルル6世の平癒祈願のために、子供たちをモン・サン・ミッシェルに巡礼に向かわせたという文章にぶち当たりました。

本文にはそうあるのですが、記事下の出典には

《Ledit seigneur pour argent par lui donné aux galopins de sa cuisine pour aler au Mont Saint Michel en pelerinage. Pour ce vendredy IIe jour de mars(1409)... argent LXXII s. 》 (Arch. nat., KK 32, fol.24 vº)

《前述の殿が、モン・サン・ミシェルへの巡礼のために厨房の子供たちに与えた金銭のために、3月2日の金曜日(1409年)72スー》

出典:ISABEAU DE BAVIERE OU L’AMOUR CONJUGAL P.131

とあるんですね。

あれれ?子供たちというのは、国王夫妻の実子のことじゃなかったのか?と、冷や汗が出るほど焦る。

なぜなら、管理人は以前、シャルル7世の記事で「カトリーヌとシャルル7世が1409年、父王のためにモン・サン・ミッシェルに巡礼に行ったようだ」と書いていて、その認識は今も変わらずだからです。

しかしホントは実子ではなく、使用人の子供たちだったとなると、シャルル7世とカトリーヌの話は誤情報だったということになってしまう。

当時の私はなぜ「実子」だと思ったのかな、ちゃんと引用原文を見なかったのかな、と後悔しました。

レイチェル・ギボンズ先生の記述

それで改めて他の資料を調べなおしたところ、当時の管理人が実子と思ったおそらくの理由が、他にもあったんですね。

それが、現代のイザボー研究者の一人、トレイシー・アダムス先生の“The life and afterlife of Isabeau of Bavaria”という本にある

In 1409 Isabeau sent her children on a pilgrimage to Mont-Saint-Michel to pray for thire father's health.

1409年、イザボーは彼女の子供たちを、彼らの父親の健康を祈らせるためにモンサンミシェルに巡礼に送り出した。

出典:The life and afterlife of Isabeau of Bavaria P.228

どう読んでも国王夫妻の子供たちと受け取れる書き方をしておられます。
当時の管理人は、これに影響を受けた可能性が大。

では、こちらは何を参考に書かれたかというと、ちゃんと註30とあり、これまたイザボーの研究者であるレイチェル・ギボンズ先生の著作“The Piety of Isabeau of Bavaria”のP.223から引用したと書いてあります。

こちらは現在、オンラインでも読むことが不可能。
ですが、同じギボンズ先生の別の著作をGoogleブックスで拾い読みすることができ、そこにもこの巡礼に触れた記述があります。

Isabeau sent her children in 1409 to pray for their father's recovery at Mont-Saint-Michel,...

イザボーは1409年に彼女の子供たちを、彼らの父親の回復を祈るためにモンサンミシェルに送った、...

出典:ISABEAU OF BAVARIA, QUEEN OF FRANCE(1385-1422)
THE CREATION OF AN HISTORICAL VILLAINESS P.60

やはりこちらも、巡礼に行ったのは国王夫妻の実子ととれる記述。
これの出典として註34に記載されているのが「AN KK32, fo. 24.」。出ました、グランドー先生が出典として明示したものと同じ、フランス国立公文書館(Archives Nationales)に眠る一次史料の番号になります。

つまりレイチェル・ギボンズ先生は、グランドー先生と同じKK32のfo24を参照した上で、国王夫妻の実子としているのです。

ギボンズ先生は、グランドー先生の史料をよく引用したり参考にしたりしているものの、この巡礼の箇所については「グランドー論文から引用した」とは書いていません。
ギボンズ先生みずからKKの原文を読んだということなのでしょう。

AN KK32, fo. 24.の謎

さて、グランドー先生は、参照した史料を至れり尽くせり全て載せてくれないようなところがあり、後で別の本と照らし合わせて、裏付けが取れることもしばしば。

そのことを念頭に置いたうえで再度、グランドー先生の引用文を読むと…

《Ledit seigneur pour argent par lui donné aux galopins de sa cuisine pour aler au Mont Saint Michel en pelerinage. Pour ce vendredy IIe jour de mars(1409)... argent LXXII s. 》 (Arch. nat., KK 32, fol.24 vº)

《前述の殿が、モン・サン・ミシェルへの巡礼のために厨房の子供たちに与えた金銭のために、3月2日の金曜日(1409年)72スー》

出典:ISABEAU DE BAVIERE OU L’AMOUR CONJUGAL P.131

「前述の殿」から記述が始まっていて、しかも王妃云々とか回復祈願とか一切書いてないので、このテキストにはワンチャン(便利な言葉!)前後があるっぽいんですよねー。

仮に、仮にですが。
このKK32.fol24のこの箇所にはもっと前後の流れがあって、それが、国王夫妻の実子たちがモン・サン・ミッシェルに巡礼したことを証明する記述だったとします。グランドー先生の方はそれらを明示せず、ギボンズ先生の方は読み込んでいたのだとすれば。ギボンズ先生が「実子」と判断したのは正当だったということになります。

ごちゃごちゃ書きましたが、つまりはKKを見れば分かることなんでしょう。
国王夫妻の実子たちが、実際にモン・サン・ミシェルに巡礼に行ったのかどうかが。

しかしそれははるか彼方、フランス国立公文書館にあり、現物を見れたとしても中世人のミミズみたいな字で書かれていて、判読も読解もできないでしょう。
一般の日本人が、どうにかできることではない。

うーん、困った

グランドー先生は実子とは書いていない、引用史料で従者の子供たちが巡礼に行ったというテキストを示しているだけ。
一方のギボンズ先生は、原史料を読んだ上で実子だとしている、ただ肝心の引用文は載せてくれていないから確認のしようがない。

レイチェル・ギボンズ先生は、硬派なしっかりした研究をされる、現代のイザボー研究者の方。そんなギボンズ先生が書かれていることなのだから、過去のブログの記述は残しておきたい。消すのは違う気がする。しかし議論の余地はあるエピソードのようです。

情報発信というのは、それを受け取っていただく以上、そして一期一会のご縁になることもある以上、大きな責任が伴うものだと実感します。

読んでくださった方に、御礼と補足を申し上げます。

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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