ごあいさつ
イザボーの生涯
参考文献
おしゃれセレクション

イザボー・ド・バヴィエールの生涯①

こちらのページでは、イザボー王妃の65年の生涯について、まとめてみたいと思います。

長く、暗く、次々にいろいろなことが起こるややこしい人生で、管理人が最後まで完走できる自信がないのですが、イザボー自身はいつも楽しく生きようとしました。そんな彼女の人生航路、見切り発車でも着手することにします。

フランス王妃イザボー・ド・バヴィエールの生涯

 

バイエルン公女

ヨーロッパ中世末期の1370年頃、イザボーは、当時の神聖ローマ帝国でもっとも栄えていた領邦といわれるバイエルン(現在の南ドイツ)で、名門・ヴィッテルスバッハ家のお姫様として生まれました。

父は「クナイセル」(洒落者)として知られていたバイエルン公シュテファン3世(イザボー誕生の頃はまだ家督を継いでおらず、公子でした)。母はイタリア・ミラノの大富豪ヴィスコンティ家の娘タデア。生まれたときの名前はエリザベートといいます。2歳ほど年上の兄ルートヴィヒがいました。

バイエルン公国は、中世初期まで歴史をさかのぼることのできる古い公国で、10世紀以来ここに根を張り都市の発展に尽くしてきたヴィッテルスバッハ家もまた、メロヴィング朝とカール大帝の流れをくむ、由緒ある家系でした。

また、同家が輩出した神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世は、イザボーの曽祖父に当たります。
このような輝かしい生家は、イザボーの生涯の誇りだったようです。

記録もたくさんは残っていない14世紀のこと。
イザボーの正確な生年月日も、子供時代のことも不明ですが、後の様子から察するに、ラテン語の読み書きや信仰心、舞踊や音楽をたしなみ、恵まれた少女時代であったと考えられます。そして、小柄で社交的、賑やかなイベントごとが大好きな女性に育ちました。これらの個人的な特徴は、お父さん・シュテファン3世によく似ていたと思われます。

母タデアはイザボーが11歳のときに亡くなり、フランス王妃になった後も、母の追悼を欠かすことはありませんでした。

アミアンでの結婚

1385年の夏、イザボー15歳のとき、フランス王シャルル6世と北フランスのアミアンで結婚します。シャルル6世は即位5年目の、17歳にもならない若い王様でした。

この縁談は、シャルル6世の摂政を務めていた父方最年少の叔父・ブルゴーニュ公フィリップ(以下、フィリップ豪胆公)の政治政策の一環として、2年前にヴィッテルスバッハ家にもたらされたものでした。

フィリップ豪胆公は、自身の領地ブルゴーニュに加えて、妻マルグリットとの結婚によりフランドル地方を領有したことをきっかけに、神聖ローマ帝国の諸公とのつながりを必要としていました。
ヨーロッパ随一の繁栄を誇るフランス王国のヴァロワ王家との縁談は、ヴィッテルスバッハ家にとっても名誉ある喜ばしいものでしたが、イザボーの父シュテファン3世は愛娘を手放すことに難色を示します。

調整の結果、北フランス・アミアン大聖堂への巡礼旅行を装った、お見合いが開かれることになりました。
シャルル6世王は、バイエルンの姫に会えるのを心待ちにしていて、イザボーを見るなり一目で恋に落ちてしまいます。イザボーも王様を好きになったようです。
シャルル6世はいち早く挙式を望み、最初の出会いからわずか3日後の1385年7月17日、アミアン大聖堂で二人の結婚式がおこなわれました。
北フランスのアミアン大聖堂は、今日ではフランスの世界遺産に登録されている。1385年の夏、イザボーは(表向きには)巡礼のためにここを訪れ、シャルル6世と出会い、結婚式がおこなわれた。
Jean-Pol GRANDMONT.2012.0 Amiens - Cathédrale Notre-Dame (1)

シャルル6世

当時のシャルル6世は、狩りや馬上槍試合などのスポーツに夢中の青年王でした。
しっかりとした体格、明るい髪に青い目、気品のある整った顔立ち。振る舞いには威厳があり、気前が良く親切。身分の低い人とも進んで交わろうとし、話したいと望む人のことを絶対に拒まなかったといわれています。シャルル6世は誰からも愛されていました。

ただし、学問の方はイマイチだったようです。
変装やお祭り騒ぎに目がなく、愛すべきおバカさんな一面もありました。重々しいフランス王の伝統衣装を着るのも嫌いでした。愛読書は『騎士道物語』等・・・。

敬愛される若いイケメン王でありながら、やや浮ついた夢見がちなところがあり、結婚の件からも分かるように、頭に血がのぼると猪突猛進。
そんなシャルル6世が、イザボーを王妃に選んだ、そして生涯の旦那様になった人でした。

イザボーは王様から大切にされ、王様を愛しました。
長い結婚生活の間、夫婦の間にはしばしば隙間風が吹きましたが、イザボーは最後の最後には、王様の隣に埋葬されるよう望むことになります。

新婚生活

14世紀のフランス王国は、後年「英仏百年戦争」と呼ばれる、イングランド王家との長い戦争のさなかにありました。
とはいえ、100年間絶え間なく合戦をしていたわけでありません。イザボーが嫁いできた頃は、先代国王シャルル5世(5年前に逝去)による立て直しが成された後の比較的落ち着いた平和な時期であり、イングランド王との関係も小康状態でした。
しかも、まだティーンエイジャーのシャルル6世は、政治のことは叔父フィリップ豪胆公らに任せていましたので、お気楽な立場といえました。
一方のイザボーは、一緒にフランスに来た乳母と幼なじみのカタリーナを、そのまま側に置くことが許されていました(乳母は結婚翌年に帰国)。気ままで幸せな新婚生活であったと思われます。
結婚後まもない国王夫妻の姿という説がある、ツゲの木板のスケッチブックに描かれた木炭画。画家が練習で描いたものなので、画力にツッコミを入れるのはNG。
Sketchbook formed of six panels of prepared boxwood
1400年頃、パリ
The Morgan Library & Museum 所蔵(MS M.346 fol. 2r)
当時のフランス王族は、王都パリのあっちゃこっちゃに贅美を尽くした居館を構えていて、必要に応じて引っ越しを繰り返していました。
シャルル6世とイザボーも、パリのサンポール館、ルーヴル宮殿、郊外のヴァンセンヌ城などの住み心地のよい美しいお城を転々として暮らしました。
シャルル6世の遠征や地方巡幸などで離れて過ごすこともしばしばだったらしく、程よい距離感もバッチリです。夫妻は旅先からせっせとラブレターを交換していました。

結婚早々、イザボーにはフランス王室古参の女性親戚たちが教育係につきました。
煩わしそうですが、イザボーは彼女たちやその他フランス王家の親類縁者にも受け入れられ、萎縮したり、対人関係のトラブルに見舞われることも特になかったようです。

制度から娯楽から、何もかもが先進的だったフランス宮廷での暮らしは、15歳のイザボーには驚きの連続だったでしょうが、やがて馴染んでいくことになります。

自己紹介

自分の写真
中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

このブログを検索

ブログ アーカイブ

ラベル

QooQ