パリ入城式&戴冠式①へ
ではお楽しみくださいと申し上げたいところですが、まだ前置きしたいことがございました。
この入城式イベントは、年代記作家の記述以上のものは深彫りのしようがなく、後世の伝記作家ができることは、年代記の記述をなぞることくらいのようです。
あとは、記録に出てくる建物が当時はどうだったかとか、イベントに向けててんやわんやしていた王家の会計簿を探るとか、当時の記述にたがわない範囲で言葉を補うなど、それぞれの著者で独自色を打ち出しているものの、大筋はどの本も同じです。
現代のイザボー伝記作家の一人ジャン・ヴェルドン(Jean Verdon)先生は、自身の著作における入城式イベントについては
イザボーが入城式で乗っていた乗り物は、どの資料でもlitièreという単語で出てきて(フロワサールはlictiereと綴っていました)、辞書で調べると「輿、駕籠、担架」と訳されています。
しかし、この言葉から日本人が想像する、人間がエッサホイサと担ぐ乗り物ではなさそう。
先述のジャン・ヴェルドン先生は
もう一つ、大英図書館収蔵の写本挿絵を引用したかったのだけれど、こちらは一昨年のサイバーテロの影響か、現在は非公開のようです。イザボーのあの赤い服の絵も、今は見れません!
が、関係ない絵を引き合いに出すまでもなく、後の時代に描かれた入城式のイラストでも、イザボーの乗り物には車輪がないように見えます。
そしてフロワサールは
イザボーの乗り物の後ろには、貴婦人たち。
馬に腰掛けた王弟妃ヴァレンティーナ・ヴィスコンティはこのとき、旦那ルイルイがまだオルレアン公ではなくトゥーレーヌ公だったので、彼女自身もトゥーレーヌ公妃でした。数日前の17日に結婚式を挙げたばかりで、パリは初めて。まるで、新しい職場に来て早々、同じ部署だからという理由で取り急ぎ結婚式に呼ばれた人みたいです。
他のお妃たちが輿や馬車に乗っている中で、ヴァレンティーナだけが馬に乗っていたことに関してはフロワサールが特筆しています。
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Martin RedlinによるPixabayからの画像 |
その前に
当時の記録について。この入城式イベントは、年代記作家の記述以上のものは深彫りのしようがなく、後世の伝記作家ができることは、年代記の記述をなぞることくらいのようです。
あとは、記録に出てくる建物が当時はどうだったかとか、イベントに向けててんやわんやしていた王家の会計簿を探るとか、当時の記述にたがわない範囲で言葉を補うなど、それぞれの著者で独自色を打ち出しているものの、大筋はどの本も同じです。
現代のイザボー伝記作家の一人ジャン・ヴェルドン(Jean Verdon)先生は、自身の著作における入城式イベントについては
Mais laissons maintenant la parole à Froissart qui a décrit minutieusement l'entrée de la reine à Paris.
しかしここからは、王妃のパリ入城を詳細に書いているフロワサールに話を委ねる(出典:Jean Verdon, Isabeau de Bavière La mal-aimée, P.55)
と宣言しています。
では、中世当時の史料で、年代記作家フロワサール大先生を含め他にどんなのあるのかというと…マルセル・ティボー先生によれば以下の感じ。
Religieux de Saint-Denis, Chronique de Charles VI
(サンドニ修道士の『シャルル6世年代記』)
Juvénal des Ursins, Histoire de Charles VI
(ジュヴェナル・ド・ジュルサン『シャルル6世の歴史』)
Guill. Cousinot, Geste des Nobles
(ギヨーム・クジノ『君候らの武勲』)
少ない!
では、中世当時の史料で、年代記作家フロワサール大先生を含め他にどんなのあるのかというと…マルセル・ティボー先生によれば以下の感じ。
Froissart, Chroniques
(フロワサールの『年代記』)
(フロワサールの『年代記』)
Religieux de Saint-Denis, Chronique de Charles VI
(サンドニ修道士の『シャルル6世年代記』)
Juvénal des Ursins, Histoire de Charles VI
(ジュヴェナル・ド・ジュルサン『シャルル6世の歴史』)
Guill. Cousinot, Geste des Nobles
(ギヨーム・クジノ『君候らの武勲』)
少ない!
このうち、管理人が確認できたのはフロワサールだけで、それ以外の中世人がどんなことを書いているのかはチェックできていません。
\フロワサール年代記はこちらを参照/
乗り物について
イザボーの乗り物についてです。イザボーが入城式で乗っていた乗り物は、どの資料でもlitièreという単語で出てきて(フロワサールはlictiereと綴っていました)、辞書で調べると「輿、駕籠、担架」と訳されています。
しかし、この言葉から日本人が想像する、人間がエッサホイサと担ぐ乗り物ではなさそう。
先述のジャン・ヴェルドン先生は
les chevaux qui menaient les litières...馬たちは輿を導き...(出典:同P.54-55)
と書いています。このことから、litièreは馬が担ぐ輿のような乗り物だったのではないでしょうか。馬が引いているのに車輪がない不思議な乗り物は、中世末期の絵にも結構描かれています。
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Grandes Chroniques de France 1375年~1380年頃、パリ フランス国立図書館 所蔵(MS Fr 2813, fol.469) |
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Grandes Chroniques de France 1415年~1460年、パリ フランス国立図書館 所蔵(MS Fr 6465, fol.442) 出典:BnF Gallica |
が、関係ない絵を引き合いに出すまでもなく、後の時代に描かれた入城式のイラストでも、イザボーの乗り物には車輪がないように見えます。
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Chroniques, Vol. IV, part 1 (the 'Harley Froissart'). (部分) 1470-1475, S. Netherlands (Bruges) 大英図書館 所蔵(Harley 4379, fol.3) 出典:British Library Images |
Et vous dy que la lictiere de la royne estoit tresriche et bien aournee et toute descouverte”そして王妃の輿は大変豪華でよく装飾され、そしてまったく覆いがない
と書いているので、入城式でイザボーが乗ったlitièreに関しては、(後世の絵とは若干違って)たぶん天井も何もないオープンデッキ仕様だったでしょう。
民衆から王妃がよく見えるように、王妃自身もアトラクションをしっかり見られるように、そしてこの後に出てくる王冠受け取りの仕掛けのために。
litière、もう「馬輿」という訳いいんじゃないでしょうか。でも馬輿という言葉はすでに存在していて、別の意味で使われているようです。
民衆から王妃がよく見えるように、王妃自身もアトラクションをしっかり見られるように、そしてこの後に出てくる王冠受け取りの仕掛けのために。
litière、もう「馬輿」という訳いいんじゃないでしょうか。でも馬輿という言葉はすでに存在していて、別の意味で使われているようです。
筆頭貴族の面々―ヴァレンティーナ
イザボーの乗り物の周りを固めていた貴族たちはこうです。イザボーの乗り物の後ろには、貴婦人たち。
馬に腰掛けた王弟妃ヴァレンティーナ・ヴィスコンティはこのとき、旦那ルイルイがまだオルレアン公ではなくトゥーレーヌ公だったので、彼女自身もトゥーレーヌ公妃でした。数日前の17日に結婚式を挙げたばかりで、パリは初めて。まるで、新しい職場に来て早々、同じ部署だからという理由で取り急ぎ結婚式に呼ばれた人みたいです。
他のお妃たちが輿や馬車に乗っている中で、ヴァレンティーナだけが馬に乗っていたことに関してはフロワサールが特筆しています。
Mais la ducesse de Touraine n’avoit point de lictiere pour differer les autres, ains estoit sur ung pallefroy tresrichement aorné et...しかしトゥーレーヌ公妃は、ほかの人たちとの区別のために、輿ではなく、大変豪華で装飾された儀仗馬に乗っていた...
ヴァレンティーナの伝記作家エミール・コラ(Émile Collas)は
Dans ce simple mot du chroniqueur, qui avoue un peu plus loin que d’autres dames montaient également des palefrois, ou trouve déjà un indice de la façon haineuse dont il parlera toujours de Valentine.少し後で他の女性たちも馬に乗っていたことを明かしたこの年代記作家のシンプルな言葉の中に、彼がヴァレンティーナについて語るときのいつもの憎々しげな調子の兆しが、すでに見てとれる。(出典:Émile Collas, Valentine de Milan, Duchesse D'Orléans., P.4)
と書いています。フロワサール年代記はヴァレンティーナに手厳しいということです。
(続く)
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