筆頭貴族の面々(女性陣)
その後も女性陣の乗り物が続き、きっちりした順番があったのかは分かりませんが、おおむね次のような感じ。
まずブルゴーニュ公妃マルグリット。すなわち、ブルゴーニュ公フィリップ叔父の夫人。
次にバール伯妃マリー。
この人は先代シャルル5世の妹の一人。シャルル6世ブラザーズ&ヴァレンティーナの叔母で、ブルゴーニュ公やベリー公にとっても妹。そして後々出てくるヨランド・ダラゴンの祖母にも当たる女性です。
甥っ子の治世に代替わりしても実家のイベントに顔を見せていたのは、意外な感じがしました。
どんな人だったのか存じ上げませんが、フランス宮廷のイベント事には普段から顔を出していたのか、シャルル6世の思い入れによるこの日だけの特別招待だったのか、彼女自身が参列を希望したのか。気になるところです。
次、ベリー公妃ジャンヌ。この人も最近ベリー叔父の後添いになったばかり、かなり若年だったはず。
そしてヌーヴェル伯妃マルグリット。この人は、ブルゴーニュ公夫妻の長男ジャン(のちの無畏公。当時まだヌーヴェル伯)の夫人で、大公夫妻にとっては期待のお嫁さんですね。
そのあとにもクーシー夫人やバール伯妃の娘ボンヌなど、高位の貴族女性たちが続きました。
筆頭貴族の面々(男性陣)
一方の男性陣は徒歩だったのかな。
イザボーの先行研究者の一人マルセル・ティボー先生の著作を見る限り、サン・ドニ門に入る前に男性陣は騎馬から降り、プロトコルに従って整列して歩いたようですが、フロワサールにはこの記述が見当たらないので、他の記録が出典なのでしょうか。
彼らには、女性陣の乗り物を先導する役割があったようです。
イザボーの乗り物の両サイド筆頭には、王弟トゥーレーヌ公ルイと、国王兄弟の母方の叔父ブルボン公。
次の両サイドには、ベリー叔父とブルゴーニュ叔父。
その次の3列目がよく分かりません。
「フロワサール年代記を参考にする」と宣言してるジャン・ヴェルドン先生によれば「ピエール・ド・ナヴァール」(シャルル6世のもう一人の叔母・故ナヴァール王妃ジャンヌの息子。つまりシャルル6世の従兄弟)と「オストルヴァン伯」(ブルゴーニュ公夫妻の娘婿かつ、ヌーヴェル伯妃の実兄)となっています。
一方、マリー・ヴェロニク・クラン先生の本では、3列目はヌーヴェル伯(ブルゴーニュ公夫妻の世継ぎ。後のジャン無畏公)とラ・マルシュ伯になっています。彼女によると、ヴェルドン先生の本で3列目だったオストルヴァン伯は、ロレーヌ公とともにサン・ドニ通りの途中から、ティボー先生によるとサン・ドニ門に入る前から、列に加わったとなっています。どういうことだってばよ。
フロワサールのテキストを確認
問題の3列目について、フロワサール年代記を活字化してくれているサイトでは「Maurre の王」と「オストルヴァン伯」と書いています。Maurre?
管理人は、これは何かの間違いではないかと考えます。例えばフロワサール年代記の字が雑で読みにくいとかで、これをヴェルドン先生はNavarre(ナヴァール)と解釈している、ということですかな。
クラン先生の著書にあったヌーヴェル伯とラ・マルシュ伯は、フロワサールの言では、イザボーの乗り物の右側につけたベリー公妃の乗り物(フロワサールは、輿ではなく馬車と書いている)を先導してたっぽい。
もう何が何だかよく分かりません。
長い道をゆっくりゆっくり時間をかけて進む中でポジション交代があったとすれば、記述にもバラツキがあるのかな、とも思いました。
服装
ちなみにこのとき、王様シャルル6世は、ブランシュ元王妃、その娘オルレアン公妃(当時トゥーレーヌ公妃だったヴァレンティーナのことではなく、故ジャン2世の王弟妃)とともに一足先にシテ島パレ・ロワイヤルに行ってご一行の到着を待っているはず、です。
それにしても、ものすごい門閥社会!
右を向いても左を向いても、フランス王家に縁故の人たちばかり。一族総出、外国に嫁いだ叔母様やその子息まで出てきました。
外国人・初参列のヴァレンティーナにしても、自身のお母さんはこの一族の生まれでした。
そんな人々に囲まれながら、ただ一人の主役イザボーは、王妃という以外、誰とも何の縁故もなく。それでも、否応なく注目を浴びる役割を派手派手しくそっと(?)務め上げたイザボーは、肝が据わっているし、立ち回りが上手だったのではないかと感じます。
クラン先生の本で触れられていた、入城式当日のイザボーの服装についても書きたいけれど、フロワサールの年代記では言及がないんだな。ということは、他の記録者が書き残してるのだろうか。
とにかく断定できない要素が多い。





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