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アルマニャック・ブルゴーニュ内戦の流れを掴む

2024/07/13

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全然更新できていなかったのですが、勉強は続けていました。

最近は、オルレアン公暗殺事件の後(1407年11月)~ヘンリー5世との間にトロワ条約締結(1420年5月)までの流れを頭に入れたいと思って、ここらへんの資料ばかりを漁っています。
文献によってエピソードの解像度が全然違うため、資料を交互に見て、ようやく流れが掴めてきたという感じ。

この時代、毎年のように、何の実も結ばなかった講和条約が乱立しているので、まとめてみました。

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

①シャルトルの和議(1409年3月9日)

故オルレアン公の遺児たちとジャン無畏公の、最初の和解。
王妃イザボーやベリー公ら中立派の仲介と、元マルムーゼであるジャン・ド・モンタギュ(国王夫妻の側近、宮内府長官)の主導によって、パリ南西・シャルトルの大聖堂にて締結。中世西洋社会で伝統的だった「王による赦免」という形での幕引きを図りました。
しかし、特にオルレアン遺児たちの方にわだかまりが残ることに。

この年の末、イザボーは王太子ルイの養育権を無畏公にゆだねて従順さを示しつつ、ルートヴィヒお兄様を、王太子身辺の重要ポストに付けているとのこと。
ちゃっかりしてる。

②ビセートルの和議(1410年11月2日)

無畏公の専横に我慢できなくなったアルマニャック派(オルレアン公シャルル、アルマニャック伯、ベリー公ら)がトゥールに結集。
「無畏公の裁きがきちんと行われていない」として、パリに向かって挙兵する。
パリ近郊で軍事衝突するも、ほかの諸侯やイザボーらの仲裁により和解。

「とりあえず諸侯は各自の領地に帰ること」「政治は第三者に委ねること」等と決まる。

③オーセールの和議(1412年8月22日)

紛争が再燃。
ベリー公が、取り決めを破って勝手にパリに来て、怒って帰ったことを口実に、無畏公が荒くれ者集団(カボシアン)を組織編成。アルマニャック派の迫害を始める。
この頃から、双方に軍事援助を申し出るイングランド王の影がちらほら。

無畏公、シャルル6世と王太子(後のシャルル7世ではなく、6つ上の兄。国王夫妻の三男)を担ぎ出して、ベリー公の領地ブールジュに進軍する。
このときは、15歳の王太子の仲裁により和解。

以降、王太子には「無畏公の言いなりになってはいけない」という意志が生まれたようです。

④ポントワーズの和議(1413年7月28日)

全国三部会の開催に合わせ、無畏公に煽られたカボシアンが暴動を起こし、数ヶ月にわたってアルマニャック派の人々を大迫害する。
国王一家の側近たちやイザボー兄も、一斉逮捕される。

やがてカボシアンは独自の条例を公布するまでになって無畏公にも制御不能になる。それでブルゴーニュ派は、やむなくパリ外にいるアルマニャック派の中枢と和睦を結ぶ。

アルマニャック派の政権復帰により、無畏公はパリから逃亡。
ヨランド・ダラゴンが無畏公との同盟を破棄したり、イザボーが末息子シャルルをヨランドの娘と結婚させたのは、アルマニャックに追い風が吹いてきていた、この時期。

⑤アラスの和議(1414年9月4日)

今度はアルマニャック派が、シャルル6世を奉じて、無畏公の領地に軍を進める。
その和議。

ここで一区切りします。
翌1415年にはイングランド王ヘンリー5世とのアジャンクールの戦いがあり、その後もサン・モールの和議(1418)、プイィ・ル・フォールの和議(1419)、王太子シャルル一派によるモントロー橋でのジャン無畏公殺害を経て、トロワ条約締結に至りました。

何回も破られた和平

パリに向かって進軍したり、パリから王様を担ぎ出したりの既視感がすごくて、さっき同じところ読まなかった?と思ったら別のくだりだったりしました

後世の人間は「和平は何回も結ばれては破られたのね」と思うばかりだけれど、その都度お家や財産を略奪される人々も、仲裁に入っていたイザボーたちなんかも、戦争はもう終わりだと信じては裏切られるなんて、しんどい。

最近は、三男・王太子ルイに関心があります。

頼りないだの、やる気がないだの、鈍重だのと、評判はあまり良くないけれど、それは義父・無畏公を敵に回した結果の「誹謗中傷」という側面も、あるような気がしています。

王太子には彼なりの方針があり、しかるべき時には、毅然とした態度も取れる人だったようです。
さすがは、シャルル7世のお兄ちゃんです。

文献参照の覚え書き

『オルレアン大公暗殺 中世フランスの政治文化』

日本語なのが何よりも良い。
しかし論説を組み立てるため、内戦の時系列はかなりバラバラに記述されている。
巻末に年表あり。

Marie-Véronique Clin(1999), Isabeau de Bavière:la reine calomniée, Perrin

流れを掴んだ後に少し踏み込んで、それぞれの和議がどんな感じだったのかを知るのに良い。

Jean Verdon(1981), Isabeau de Bavière : la Mal-Aimée, Tallandier

本ブログでは未紹介。
和議と和議の間を繋ぐエピソードがとても詳細。しかもばっちりイザボーにスポットライトを当ててくれている。
しかし細かすぎて、今どの辺りを読んでいるのかさっぱり迷子になる。
ほかの文献で流れをしっかり頭に入れ、最後に総仕上げに参照するのが良いかも。
管理人はまだその域に達していません。

Karin Schneider-Ferber(2018), Isabeau de Bavière:FRANKREICHS KÖNIGIN AUS DEM HAUSE WITTELSBACH, Verlag Friedrich Pustet
概要を掴むのによい。

Tracy Adams(2010), The Life and Afterlife of Isabeau of Bavaria, Johns Hopkins University Press
これも本ブログでは未紹介。
概要を掴むのによい。

Louis-Pierre Anquetil (1817), Histoire de France, Janet et Cotelle
google booksで参照。えらく古い本のため、自動翻訳にかけたときの日本語訳も、ややヘン。
でも、内戦の流れが掴めてきた段階で読めば、多少意味不明でも理解は深まるかも。
それに、他の文献では見たことのないエピソードも紹介されています。
↓↓↓
オーセールの和議のときの、ベリー公の言葉が切ない。
老ベリー公にとってジャン無畏公は、仲の良かった弟・フィリップ豪胆公の息子。
同じ「ジャン」という名前を分けた、名付け子でもありました。
つまり、生まれたばかりの赤ちゃんのときに抱いて洗礼式に臨んだような、本来ならば愛おしい甥っ子なわけです。

そんな子が、他人行儀なことにすっかり自分を敵と見なしている。和平交渉の席でも、間にバリケードなんか築いて警戒されていることに、ショックを受けたとのこと。
「我が甥にして名付け子よ。そなたの父が在ったときには、我々の間にはこんな障壁など必要無かったのに」
というようなことを呼びかけて和議を締結したとか、そんな初耳エピソードが紹介されていました。
以上

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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