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イザボー・ド・バヴィエールの生涯②

シャルル6世の親政

1388年11月、20歳を目前に、シャルル6世は親政開始を宣言しました。

12歳での即位以来、サポートしてくれた叔父たちには感謝しつつ、おいとまを出しました。そして、溺愛する弟トゥーレーヌ公ルイを重用し、亡き父王に仕えていた官僚集団マルムーゼも登用します。

シャルル6世とマルムーゼたちは、財政改革として、叔父たちの職権濫用にメスを入れます。これは、フランス宮廷の税収で自分たちの領地を運営していた叔父たちには都合の悪いことで、当然ながら彼らの気分を害してしまいました。
フィリップ豪胆公にとっては、自分たちと逆に台頭してきた王弟ルイの存在も不愉快です。

激務に加えて、今まで可愛がってくれた叔父たちとの軋轢が、シャルル6世にはストレスだったのかもしれません。
厳しい現実を払拭するかのように、シャルル6世は盛大な楽しい祝祭を計画しました。

祝祭

1389年5月、従弟にあたるアンジュー家の息子たちの騎士叙任式。
王家の菩提寺サン・ドニ修道院の庭を貸し切った馬上槍試合。
百年戦争の雄ゲクラン将軍(10年前の1380年に逝去)の追悼式。
さらに1389年に行われた、イザボーが主役の「パリ入城式」と「戴冠式」の壮大さは伝説級のイベントです。
ほかにも、にぎやかな舞踏会や夕食会もたくさん開催されました。

これらの出来事に着飾って出席しながら、イザボーは子どもたちを生みました。
結婚翌年の秋に生まれた長男シャルル、次に生まれた長女ジャンヌは小さい頃に亡くなりましたが、1389年に次女イザベル(後のイングランド王妃、オルレアン公妃)、1391年には三女ジャンヌ(後のブルターニュ公妃)が生まれています。

運命の曲がり角

1392年のはじめ、イザボーは王太子となる次男シャルルを出産していました。
しかし、お祝いムードにも関わらず、王国内では天変地異が相次ぎ、国王シャルル6世も体調不良という、不吉な上半期となりました。

追い打ちをかけるように、シャルル6世が目をかけていた大元帥でマルムーゼの一人、オリヴィエ・クリソンが暗殺未遂される事件が起こります。
犯人は、少し前に王弟ルイと喧嘩して宮廷をつまみ出されていたブルターニュの騎士クラオンでした。

シャルル6世は激怒して復讐を約束しました。そして、「犯人はブルターニュ公に匿われている。軍隊を率いてブルターニュ公国に攻め込む!」と主張します。

これに反対したのが叔父たちです。
特にブルゴーニュ公フィリップ豪胆公は、かつて舅のフランドル伯がブルターニュ公と同盟関係にあり、愛妻マルグリット夫人もその方針を引き継いでいたこともあって、ブルターニュ公討伐には強く反対でした。

シャルル6世と叔父たちの間で、連日激しい口論があり、王様はますます消耗していきました。

イザボーは王様を心配して、フィリップ豪胆公らと共に遠征に反対しました。
イザボーは、実家ヴィッテルスバッハ家とフィリップ豪胆公の親しい交流の結果、豪胆公の導きで王妃になった女性です。なので、個人的にはフィリップ豪胆公を敵に回す理由はなく、むしろ指針を示してくれる叔父様として、慕っていたとされています(本心は分かりませんが・・・)。

それでも、シャルル6世がついに我を通し切って出陣することになった際には、夫の気持ちに寄り添うことにしたようで、真珠の付いた帽子を贈ってます。
シャルル6世はそれを被って馬に乗り、くだんの叔父たちや弟ルイ、主な廷臣たちと共に出陣していきました。

シャルル6世の発狂

暑い8月の不可解な事件でした。
王様の一行がル・マンの森の中を進軍していたとき、茂みからボロをまとった浮浪者風の男が飛び出してきて「王様、あなたは裏切られた!」「これ以上進んではいけない!」などと叫びながらシャルル6世の馬にまとわりつき、追い払っても追い払ってもついてきました。
これは、ただでさえナーバスになっていたシャルル6世を、最高に気味悪がらせたことでしょう。

正午頃、一行は森を抜けた平地を進んでいました。
炎天下で王様もみんなも頭がぼうっとしていたとき、近習が取り落とした槍が前の騎士の兜にあたり、けたたましい音が響きました。
シャルル6世は驚いて錯乱し、剣を抜いて、周囲の人々に見境なく斬りかかりました。

これにて数人の騎士が命を落とし、シャルル6世はなおも暴れ回った後、取り押さえられて昏睡状態になり、そのまま隔離療養のためにクレイユの町に送られました。

親政終わる

このシャルル6世発狂事件は、誰かさんたちによって仕組まれたものなんじゃないの?と疑ってしまうような、怪しい事件です。

何にせよ、これ以降、実権は叔父フィリップ豪胆公らの手に戻りました。
シャルル6世はその後、意識を取り戻すことにはなるのですが、反抗的な態度をやめました。
シャルル6世が意気揚々と始めた親政は、わずか4年で幕を下ろすことになりました。
マルムーゼたちは「王様に悪影響を与えた」として投獄や追放で蹴散らされ、その役職は叔父たちの腹心に取って替わられました。

シャルル6世の親政で残ったものは、数々のエンターテインメント伝説と内紛の予兆だけという、なんとも微妙な4年間でした。

22歳のイザボーにとっても、楽しかった青春時代は終わりました。
今後どうなっていくのか分からないまま、フランス王妃、宮廷の女主人、子供たちの母親、また生家ヴィッテルスバッハ家の一員としても、生きていかなくてはなりません。
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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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