イザボーは、兄は一人いたもののバイエルン公シュテファン3世の一人娘で、小柄なところや健康的な体質、パリピ属性まで、父親似だったようです。イザボー自身、父親思いのお父さんっ子で、シュテファン3世からもとても可愛がられました。
とりわけ、結婚の際のエピソードは胸を打つもの。
父の愛情が伝わるエピソードを紹介したいと思います。
イザボーが生まれ育った14世紀後半のドイツ人たちのイメージ。 『刺繍の壁掛け』(部分)14世紀後半、ドイツ・ニーダーザクセン州おそらくヒルデスハイム ニューヨーク メトロポリタン美術館 所蔵 出典:メトロポリタン美術館 |
フランス王家からの縁談
中世末期という時代背景もあって、イザボーとシャルル6世の結婚にまつわる話は、史料が限られています。その限られた史料の中で、もっとも詳細でドラマチックなのが、当時の記録者ジャン・フロワサール(Jean Froissart:1337-1405頃)が書いた『年代記』に伝えられている物語です。ほかにもいくつか同時代の記録はあるものの、どれも内容が曖昧なため、結局はフロワサールの物語が一番真実に近いのだろう、とされています。
従って、以下はフロワサールの年代記に沿ったものになります。
イザボーは15歳のとき、若きフランス王シャルル6世の王妃となりました。その詳細な経緯についてはまた触れるとして、簡潔に言えば、シャルル6世の叔父・ブルゴーニュ公の政治政策の一環でありました。
ブルゴーニュ公からバイエルン公フリードリヒに、同盟のための縁組みが持ちかけられたとき、フリードリヒは、バイエルンを共同統治する兄シュテファン3世の娘エリザベート(のちのイザボー)を推薦しました。
フランス王国の都パリは、当時のヨーロッパ最大の人口を誇り、文化と商業の中心地でした。
そこの王妃候補としてお声がかかるなんて、ヴィッテルスバッハ家にもエリザベート本人にとっても、非常に名誉かつ喜ばしいお話でした。
しかし弟から縁談を聞いたシュテファン3世は渋ります。
父、娘を送ることをためらう
シュテファン3世は、縁談は喜ばしいことだとは前置きしつつ、フランス王国が遠いことや「娘がとても愛おしいので」近場で結婚してほしいことなどを理由に断っています。大切な一人娘を思いやるがゆえの、ごく自然な理由でした。
シュテファン3世自身がフランス王国をよく知らなかった、ということもあったかもしれません。
ブルゴーニュ公は一旦、話を引っ込めざるを得ませんでした。
話が再び動き出したのは2年後の1385年の春。
諦めきれないブルゴーニュ公が、親戚も巻き込んで再びアプローチを開始してからのこと。
弟フリードリヒの熱心な説得もあって、ようやくシュテファン3世は、弟が娘をフランスに連れて行くことに合意します。
「フランス王とバイエルン公女の正式なお見合い」という形にすると、失敗したときに後腐れがあるからか、あくまで「聖地アミアンへの巡礼旅行」の形がとられました。
イザボーが巡礼のために訪れ、結婚式の舞台にもなったアミアン大聖堂。今日ではフランスの世界遺産に登録されている。 Jean-Pol GRANDMONT.2012.0 Amiens - Cathédrale Notre-Dame (1) |
当時イザボーの時代、ここには「聖バプテスマのヨハネの頭」という聖遺物が納められていました。
これを巡礼するのに合わせてエリザベートを国王シャルル6世に会わせ、二人がいい雰囲気になればお見合いは成功。
万が一上手くいかなかったとしても、巡礼終了ということで、エリザベートは何事もなかったかのようにバイエルンに帰ってくることができます。
だから、ブルゴーニュ公やシャルル6世らごく一部の関係者以外には、計画の本当の目的は一切伝えられませんでした。
フロワサールははっきりとは書いていないけれど、エリザベート本人でさえ詳しいことは聞かされていなかっただろうというのが、大方の歴史家の意見です。
別れ際、黙って娘を抱きしめる
フロワサールによると、エリザベートがバイエルンを出立する際、シュテファン3世は長い間、黙って娘を抱きしめていたといいます。そして、エリザベートを連れて旅立つ弟フリードリヒに「娘を連れて帰ってきたりすれば、私はおまえの最大の敵になる」と釘を刺しました。姪っ子を絶対にフランス王妃にする、というフリードリヒ叔父の責任は重大だったけれど、シュテファン3世も精一杯考えて下した決断。自分からもぎ取った以上、雑な扱いと送還は絶対に許さないけれど、送還された場合のこともしっかり想定しています。その内心は、実に複雑なものだったでしょう。
父の心には、娘への愛おしさ、一生の別れとなるかもしれない悲しみ、フランス王妃にしてやれる誇らしさ、一抹の不安や、賭けのような未来に放り出してしまう申し訳なさ、その一生の幸せを願う気持ちなど、ありとあらゆる感情が、交互に去就していたに違いないありません。それでも激情に耐えて、黙って娘を抱きしめていたシュテファン3世。その気持ちを思うと切なくなります。
この後、アミアンにてシャルル6世に会ったエリザベートは、シャルル6世に一目惚れされます。こうして無事に結婚成立したというのが、フロワサールの伝える話でした。
遠い故郷から娘を思う
父の深い愛をうかがい知ることができるのは、年代記の記述だけではないようです。イザボー・ド・バヴィエールの先行研究者の一人、マルセル・ティボー先生(Marcel Thibault:1874-1908)によると、娘の結婚後、シュテファン3世が、バイエルンの吟遊詩人をフランス宮廷に派遣した記録が残っているとのこと。遠く異国の宮廷で頑張っている娘に、故郷の歌を届けてあげたいという親心だったでしょう。
シュテファン3世の本心は?
さて、フロワサールは、シュテファン3世は「半分は野心から、半分は根負けから」娘を手放したというような書き方をしていて、最後まで消極的だったような印象を残すのですが、実際のところ、どうだったのでしょうか。
Victoria_RegenによるPixabayからの画像 |
体は小さくとも精力的な野心家で、派手好きで、遊び上手の勝負師でもありました。帝国一の名門・ヴィッテルスバッハ家の生まれというプライドも高く持っていました。
間違っても、娘をむしり取られた哀れなお父さんではありません。
このことを思えば、葛藤と逡巡は確かにあったと思いますが、根負けからというよりはむしろ駆け引き…相手側の出方をうかがいつつ、愛する娘が尊重され、誰よりも望まれて嫁げるように、好条件を引き出してからGOサインを出したように思えます。
最大限エリザベートに配慮した、手の込んだお見合いを開かせたこともそうだし、お嫁入りに友人カタリーナ&乳母を同伴させることに成功したのもそう。
「フランス王と結婚させてやるから感謝せよ」という尊大な態度の見え隠れするフランス王家を相手に、シュテファン3世は上手に立ち回ったと言えないでしょうか。
何にしても、イザボーがVIP待遇でフランス王家に入ることができたのは確かです。
イザボー、父の再婚の世話を焼く
イザボーは、このように愛情深い父親のもとに生まれ、15歳まで育てられました。シュテファン3世が娘を故郷から送り出したとき、激しい葛藤を抱えつつも、「この子なら大丈夫」という気持ちがあったからこそGOサインを出したのでしょうし、実際、イザボーが嫁ぎ先に素早く馴染んでフランス宮廷生活を満喫していくのを見ると、娘の適性もよく見極めていたと思われます。
父との温かい心の交流はその後も続き、結婚16年後の1401年には、嬉しい再会も果たしています。