イザボー・ド・バヴィエール、イザボー王妃、イザボー―綴りにして“Iabeau”―と呼ばれるこの名前は、同名の人物がとても多い昔のロイヤルファミリーでは珍しく、他にこの名前で呼ばれている人物は一人も見当たりません。
まさにこれこそが、イザボーをイザボーたらしめているわけですが、実は、生前から本人がイザボーと自称していたわけではないようです。
このイザボーという名前は、いつ、なぜ、どこから来たのでしょうか。
シャルル6世時代の王家の帳簿 『王妃イザボー・ド・バヴィエールの帳簿』1420年~1422年 フランス国立図書館 所蔵 出典:BnF Gallica |
この「エリザベート」は、当時のフランスでは、ラテン語系の形「イザベル」に変化しました。
フランス王妃となったイザボーも、これに従い「イザベル」とサインしていました。綴りは「Ysabel」です。
だから、本来であれば、彼女は今日でもイザベル王妃と呼ばれていたはずです。
にもかかわらずイザボーと呼ばれ、イザベル王妃と呼ばれることはありません。
イングランド王妃となった同じ名前の娘をはじめ、フランス王家の同名の親戚たちはみんな、今でもイザベルとして名前を残しているのというのに。
イザボー・ド・バヴィエールの先行研究者の一人、マルセル・ティボー先生(Marcel
Thibault:1874-1908)が1903年に発表したイザボーの伝記によると、イザボーの呼称が広まったのは、当時書かれた“Le Songe Véritable”(『真実の夢』)という風刺バラードが始まりといいます。
イザボーが30代だった1400年代はじめ、フランス王国の国政は乱れ、王族らを批判する風刺バラード『真実の夢』が広まりました。
『真実の夢』は王妃を「イザボー」と呼び、名指しで糾弾しています。イザベルをあえてイザボーと表現することで、バラードの作者は王妃を貶めようとしたのだろうと、ティボー先生は推測しています。
バラードの持つ伝搬力を思えば、頷けるものでしょう。
一方、1990年代にイザボーの伝記を書いたマリー・ヴェロニク・クラン女史(Marie-Véronique Clin)は違うことを書いています。
女史によると、イザボーという呼び方は、当時の宮廷の会計係が、帳簿に王妃の名前を「イザボー」と書いたことが始まりになっており、「悪意の込められたものではまったくない」とのこと。
帳簿の中のヘンな綴りが始まりで、特に悪意はないというのも、これまたありそうです。
というのは、研究者がシャルル6世時代の帳簿を活字にしたものを眺めていると、人名にしても物の名前にしても、表記ゆれが見られるからです。
おかゆ→bouillie/boulie/boullye というふうに。手軽に情報共有&アクセスできるデジタルデータも、画一的な国語教育もなかった時代のこと。人々はおおらかに、単語を聞こえるままに綴っていたのかもしれません。
このような表記ゆれの一種で、Ysabel(イザベル)からIsabeau(イザボー)なる名前が派生することも、ありうるのではないでしょうか。
最初にこの呼称が生まれたときに、悪意があったにせよ、なかったにせよ、やがてIsabeauは独り歩きを始めました。
そして、悪名高い王妃の、その他大勢のイザベルと区別できる独特の名前として呼び継がれて、今に至っています。
その意味では、悪意を込めて選択されてきた呼び名と言うこともできるでしょうけれど、もはやイザボーの呼称は彼女のアイデンティティとなっていて、軽い読み物から一流の研究者までが、すべからくイザボーと呼んでいます。
今更、「イザベル王妃」などと呼び始めたところで白々しい感じがしないでもありません。今後もずっと、彼女はイザボー王妃と呼ばれ続けていくのでしょう。
「好きな歴史人物は?」と聞かれたとき、「イザボー」とは、ちょっと言いにくいのですが。