\人物関係図もご覧ください/
イザボーの人生は1435年の冬に65歳で終わりますが、末息子でフランス王になったシャルル7世の人生は、その後も続きます。 親兄弟の中ではもっとも長生きして、1461年に58歳で亡くなるまで。
40代くらいの頃、画家ジャン・フーケによって描かれたシャルル7世の肖像画。 『シャルル7世の肖像画』ジャン・フーケ 1440年~1460年の間 ルーヴル美術館 所蔵 出典:ウィキメディアコモンズ |
この間、
・内戦によってフランス王位継承権を失い
・聖女ジャンヌ・ダルクの助けを借りてイングランド占領下のオルレアンを解放し
・フランス王としての戴冠式にまでこぎつけ
・長く対立していたブルゴーニュ公と和睦し
・英仏百年戦争を終結させて「勝利王」と呼ばれ
・フランスを国民国家として大きく前進させ
と、実にいろいろなことを成し遂げました。
たくさんの人に支えられた一方で、暗くて険しい人生を歩み、親子関係では恵まれなかった人でもあります。それでも、家族の思い出を大事にしていたのでは?と思えるエピソードがいくつかあります。
母方の叔父・バイエルン公ルートヴィヒ7世が敵に捕まると、保釈のための交渉を引き受けています。
戦乱で生き別れた異父妹マルグリットを助け出して結婚を手配してやり、英仏百年戦争が落ち着いた頃には、両親の出会いの地アミアンで2人の追悼式も行っているそうです。
戦乱で生き別れた異父妹マルグリットを助け出して結婚を手配してやり、英仏百年戦争が落ち着いた頃には、両親の出会いの地アミアンで2人の追悼式も行っているそうです。
ところが、因縁で結ばれた2つ年上の姉カトリーヌに対しては、シャルル7世との間にどんなエピソードがあり、お互いにどう思っていたのか、管理人はまったく情報を掴むことができないでいます。
英仏百年戦争の時代に、イングランド王の生母とフランス王であった姉と弟の関係は、不気味なくらい何も伝えてくれません。
兄弟たち
1403年2月22日生まれのシャルル7世は、誕生時点では将来フランス王になる見込みもなかった末息子で、「ポンテュー伯シャルル」と呼ばれていました。1401年10月27日生まれのカトリーヌ(イングランド王妃キャサリン・オブ・ヴァロワの名前で知られています)とは、2歳違いの姉弟でした。
2人は、イザボーが産んだ12人の子供たちの中では末っ子組で、年齢の近さも、子供時代に一緒に過ごした時間の長さも、お互いに一番でありました。
1403年にポンテュー伯シャルルが生まれたときの兄弟構成はこちら。
1403年にポンテュー伯シャルルが生まれたときの兄弟構成はこちら。
・イザベル14歳
・ジャンヌ12歳
・ミシェル8歳
・王太子ルイ6歳
・トゥーレーヌ公ジャン5歳
・カトリーヌ2歳
・ポンテュー伯シャルル
すでに亡くなっていたり王家を出ていた子供を除き、幼子には大人のように思えたであろう10代の姉2人(イザベルとジャンヌ)、優しい8歳の姉(ミシェル)、年子の兄2人(王太子ルイとトゥーレーヌ公ジャン)、そして2歳上に姉(カトリーヌ)という構成。
そしてポンテュー伯シャルルが4歳のとき、弟で末っ子のフィリップが生まれます。
フィリップは生後まもなく早逝しますが、同じ年、父シャルル6世の私生児マルグリットが生まれています。
この子はポンテュー伯にはなじみの存在だったようで、イザボー王妃の子供たちと一緒に育てられた可能性があります。つまり、ポンテュー伯にとっては可愛い妹でした。後に生き別れて困窮していたところを引き取って、結婚の世話もしています。
残された王家の末っ子2人
年子だった兄二人は、ポンテュー伯とは5歳以上離れていたので、憧れのような気持ちこそあれ、一緒に遊ぶことは少なかったかもしれません。そして、ポンテュー伯が物心つく頃から、上の子たちはどんどん結婚して王家を離れることになります。1406年にイザベルとジャン、1407年にジャンヌ、そして1409年にはミシェルが。
残されたのは、6歳年上の兄王太子ルイ、2歳年上の姉カトリーヌ、そして4歳年下の異母妹マルグリットでありました。
残されたのは、6歳年上の兄王太子ルイ、2歳年上の姉カトリーヌ、そして4歳年下の異母妹マルグリットでありました。
近代までどこのヨーロッパ王家の子供たちもそうだったようですが、彼らは学校に通うということをしなかったので必然的に兄弟と過ごす時間が長くなりました。
側室制度がないためみんな同母兄弟で(異母妹マルグリットのような例は非常に珍しい)、年齢が近い者同士は、特に仲良しになるケースが多かったようです。
ポンテュー伯シャルルと姉カトリーヌもそうだったのではないかと、想像することができます。
側室制度がないためみんな同母兄弟で(異母妹マルグリットのような例は非常に珍しい)、年齢が近い者同士は、特に仲良しになるケースが多かったようです。
ポンテュー伯シャルルと姉カトリーヌもそうだったのではないかと、想像することができます。
父王シャルル6世は若い頃から精神病に浮き沈みしていました。そして姉弟がまだ小さかった1407年、フランス王国では、南部を拠点にするオルレアン派(後にアルマニャック派)と北部のブルゴーニュ派という、2つの派閥による内戦が始まりました。
内戦は悪化の一途をたどり、不況やイングランド王ヘンリー5世による軍事侵攻も始まり、不穏な時代の幕開けでもありました。
それでも、よく言われるのとは逆に、子供たちにはフランス王子・フランス王女にふさわしい豊かな暮らしが与えられていました。
お揃いのお仕着せを着た世話係の女官たちにかしずかれ、修道院の庭を貸し切って遊び、当時まだ高級輸入品だった砂糖を使った甘いおやつを食べることができました。
\子供たちのおやつ事情は、こちらをご覧下さい/
ペットの小鳥や小動物を可愛がり、仕立て屋が頻繁に贅沢な服を納品し、両親や親族からは本や装飾品などのプレゼントも惜しみなく与えられました。
1409年には、ともに父王の病気回復を祈るためモン・サン・ミッシェルへの巡礼の旅に出されているようです。
1409年には、ともに父王の病気回復を祈るためモン・サン・ミッシェルへの巡礼の旅に出されているようです。
兄や姉たちが一人また一人と宮廷を去っていき、年々政治情勢が悪化していく中、残されたカトリーヌとポンテュー伯は、嬉しいことも悲しいことも一緒に経験したでしょう。
1415年10月、フランス軍は「アジャンクールの戦い」でイングランド王ヘンリー5世率いる6000の弓兵に大敗し、2ヶ月後には長兄・王太子ルイが18歳で病死。バイエルン公の家に婿養子に入っていた次兄ジャンが新しい王太子になって戻ってきます。
運命の変転
ポンテュー伯は、10歳で親戚筋のアンジュー家の姫と婚約して生家を出ますが、その後もぼちぼち帰ってくることはあったようです。運命が変わるのは、ポンテュー伯シャルルが14歳、カトリーヌが16歳の1417年のこと。この年、王太子ジャンが亡くなり、末息子だったポンテュー伯シャルルに王太子の地位が回ってきたのです。
フランス王シャルル6世亡き後は、イングランド王ヘンリー5世とその子孫がフランス王も兼ねることが定められました。
19歳の王女カトリーヌはイングランド王ヘンリー5世と結婚することになり、王太子シャルルはジャン無畏公殺害の重罪でフランス王位継承権を剥奪されます。
ただ、王太子は自身の廃嫡を認めず、その後もイングランド王への徹底抗戦を続けました。カトリーヌとしては、旦那様と弟が延々戦争を繰り広げていたことになりますが、運命の変転は止まりません。
2カ月後にはフランス王シャルル6世も老衰で亡くなります。
「シャルル6世亡き後はイングランド王がフランス王を兼ねる」というトロワ条約に則り、新しいフランス王になったのは、先ほどの赤ちゃん・ヘンリー6世でした。
こうして、ずっと一緒に育った姉弟は、かたやイングランド王兼フランス王ヘンリー6世の生母、かたや自称フランス王シャルル7世という敵同士になってしまいます。
後年、家族の思い出を大切にしていたようにも見えるシャルル7世のことですから、無関心だったというのは考えにくいですが。
ただ、特に若い頃は生きることに精一杯で、感傷にひたる余裕などなかったのは確かでしょう。
シャルル7世の脳裏には、一瞬でも姉のことが浮かぶことはあったのでしょうか。この頃すでにカトリーヌは亡くなっていましたが、もし彼女が生きていたらどうなっていただろう?と思わずにはいられません。
シャルルとカトリーヌは、お気楽な立場の末っ子2人組として、一生、温かい交流を持ち続けていたかもしれません。
新・王太子シャルルは婚約者の実家との関係から、おのずと南部のマルマニャック派に組み込まれ、そのリーダーと目されるようになります。
アルマニャック派の頭領・アルマニャック伯は、王太子への影響力を削ごうと、王妃イザボーを宮廷から追放。王女カトリーヌは母の後を追ったため、この時点で姉弟は決別することになりました。ずっと一緒だったシャルルとカトリーヌは、これ以降、二度と再会することはありませんでした。
数カ月後、イザボー王妃はブルゴーニュ公ジャン無畏公と組んで巻き返しを図り、パリに進軍。アルマニャック派の頭領だった王太子シャルルは、パリから命からがら逃げ延びるしかありませんでした。
亡命状態の王太子派と、ブルゴーニュ公の擁する国王夫妻の派閥。フランス宮廷は2つに分かれました。
1419年、パリにイングランド軍が迫ります。いつまでも内戦もしていられないとブルゴーニュ公ジャン無畏公と王太子の和平交渉の場が設けられますが、この席上、王太子の一派がジャン無畏公を殺害してしまいます。
ジャン無畏公の後を次いだ若い息子フィリップ(のちにフィリップ善良公と呼ばれます)は吹っ切れて、フランス国王夫妻にイングランド王ヘンリー5世との講話条約を結ばせることになりました。
当時、お金も指導力も欠いていたフランス国王夫妻は、フィリップ善良公に従うしかなかったようです。
トロワ条約
1420年5月21日、イングランド王とフランス王の間で「トロワ条約」が結ばれました。フランス王シャルル6世亡き後は、イングランド王ヘンリー5世とその子孫がフランス王も兼ねることが定められました。
19歳の王女カトリーヌはイングランド王ヘンリー5世と結婚することになり、王太子シャルルはジャン無畏公殺害の重罪でフランス王位継承権を剥奪されます。
ただ、王太子は自身の廃嫡を認めず、その後もイングランド王への徹底抗戦を続けました。カトリーヌとしては、旦那様と弟が延々戦争を繰り広げていたことになりますが、運命の変転は止まりません。
条約からたった2年後の1422年8月、ヘンリー5世が義父シャルル6世に先立ち35歳で陣没。あれほど願っていたフランス王になることが叶わないまま…。
後を継いでイングランド王となったのは、亡きヘンリー5世と妃カトリーヌとの間に生まれた9ヶ月の赤ちゃん・ヘンリー6世でした。
2カ月後にはフランス王シャルル6世も老衰で亡くなります。
「シャルル6世亡き後はイングランド王がフランス王を兼ねる」というトロワ条約に則り、新しいフランス王になったのは、先ほどの赤ちゃん・ヘンリー6世でした。
同じ頃、王太子シャルルもフランス王シャルル7世を名乗ります。
こうして、ずっと一緒に育った姉弟は、かたやイングランド王兼フランス王ヘンリー6世の生母、かたや自称フランス王シャルル7世という敵同士になってしまいます。
シャルル7世の立場は理不尽ですが、姉にしても複雑な心境だったと思います。
イングランド王との結婚は戦争を止めるためのもので、両親からも望まれたものでしたが、相手はつい先頃までフランス人を殺しまくっていた人物なわけです。
しかもこの結婚の代償に弟が勘当・追放になり、旦那さんと延々戦いを続け、やがてその旦那さんが亡くなると、今度は息子と戦う。
仕方ないよね、と納得などできたでしょうか。ずっと一緒に育ってきた弟なのに。
しかもこの結婚の代償に弟が勘当・追放になり、旦那さんと延々戦いを続け、やがてその旦那さんが亡くなると、今度は息子と戦う。
仕方ないよね、と納得などできたでしょうか。ずっと一緒に育ってきた弟なのに。
この後も2人の人生は交わることがないまま、シャルル7世は戦争と陰謀ばかりの修羅の道を歩んでいき、姉はイングランドでひっそり再婚して生きていくことになります。
後日談
ただ、はじめにも書いたように、実際のところ2人がお互いにどう思っていたのかは分かりません。あまりに辛い記憶ゆえにお互い誰にも話さず、記録が残らなかったのか。
無関心だったのか。
憎み合っていたのか。
実は手紙など交わしていたものの、今では失われてしまったのか。
後年、家族の思い出を大切にしていたようにも見えるシャルル7世のことですから、無関心だったというのは考えにくいですが。
ただ、特に若い頃は生きることに精一杯で、感傷にひたる余裕などなかったのは確かでしょう。
時代は流れて1440年代の半ば、英仏百年戦争も落ち着いた頃。20代になっていたイングランド王ヘンリー6世と叔父シャルル7世の、おそらく初めての対面が実現しました。
この頃、ヘンリー6世の王妃候補として、シャルル7世の娘たちの名前が上がっていたようです。
ヨーロッパの王家でいとこ婚は珍しいものではありませんでしたが、シャルル7世は妻の姪を推薦しました。なので、結局、「ヴァロワ姉弟の子供たち同士の結婚」は成立しませんでした。
この頃、ヘンリー6世の王妃候補として、シャルル7世の娘たちの名前が上がっていたようです。
ヨーロッパの王家でいとこ婚は珍しいものではありませんでしたが、シャルル7世は妻の姪を推薦しました。なので、結局、「ヴァロワ姉弟の子供たち同士の結婚」は成立しませんでした。
シャルル7世の脳裏には、一瞬でも姉のことが浮かぶことはあったのでしょうか。この頃すでにカトリーヌは亡くなっていましたが、もし彼女が生きていたらどうなっていただろう?と思わずにはいられません。
もし、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦がなかったら。
兄たちの相次ぐ死がなかったら。
イングランド王による軍事侵攻がなかったら。
シャルルとカトリーヌは、お気楽な立場の末っ子2人組として、一生、温かい交流を持ち続けていたかもしれません。