拡大の上、タップしたら説明に切り替わると思います。
公開後、画像の横幅を減らしたので、少し文字が大きくなりました。
そのために、クリスティーヌ・ド・ピザンら文化人を、子供たちの横に移動しました。
制作ツールを選ぶ
この関係図の制作にあたって、どんなツールで作るのが良いかな、と探しました。相関図というよりは家系図であるため、家系図作成を念頭に置いていました。
家系図作成アプリは、名前を入力するだけで家系図が作れる、便利で手軽なものがいろいろにありましたが、いとこ婚など、婚姻関係が複雑に交差することには対応していなくて❌
Wordに備え付けられているチャート機能も、同じ理由で❌
とある家系図作成のオンラインサイトは、この点はクリアしていたものの別の問題が。というのは、図がだんだん大きくなってくると、繋がったものを一度に表示ができない。表示されるのは単純な縦横の繋がりだけで、親戚を表示するにはクリックしなければならない感じでした。目的に合致していないので、これも❌
最終的に、オンラインで無料配布されているExcelの家系図テンプレートをお借りしました。名前を入力したら勝手に組んでくれるというアプリの便利さはありませんが、これなら親戚関係の複雑な交差も大丈夫!
ということで、このテンプレートをカスタマイズしていきました。
それぞれの肖像画について
表示している画像はすべて、ご本人が生きていた頃に描かれたとされる本人画像、または、それを元にしたもの、を選びました。無い人が多いのは本当に残念です。この関係図の舞台である14世紀、ヨーロッパの宮廷で、肖像画というジャンルの絵が初めて登場しました。
フランス王で肖像画が残っているのは、ジャン2世が一番最初だそうです。
ルーヴル美術館所蔵のジャン2世の肖像画。 フランス王で初の個人肖像画といわれるが、 息子シャルル5世という説もある。 |
この関係図で使った画像はみんな、それらの宗教画や挿絵、あるいは石像彫刻や、失われた肖像画の写しから来ています。ただ一人、オーヴェルニュ女伯ジャンヌだけは、17世紀の画家ホルバインによる墓標彫刻のスケッチです。一人だけ写実的なのは、未来人が描いたからですね。
ベリー公2人目のお妃ジャンヌの絵。 お墓の彫像を17世紀の画家がデッサンしたもの。 |
そして、画像自体はすべてウィキメディア・コモンズから拝借しました。
純粋に同時代のものだけを集めていくと、横顔と、敬虔さを表す祈りの姿が多いですね。
また、当時の流行も見て取れると思います。例えば、シャルル6世と叔父フィリップ豪胆公は、2人とも帽子にブローチを付けていて、ネックレスにも同じようなシッポが付いている!というふうに。
フィリップ豪胆公(左)とシャルル6世。 帽子にブローチを付け、ネックレスのシッポが同じ。 |
フィリップ豪胆公はなかなかパンチがきいておりますが、ディジョンのシャンモール修道院にある石像彫像も同じお顔で、実際こんな感じだったのでしょう。末息子らしい、人の懐に入るのが上手な人で、観察眼もあり、ジュードポーム(テニスの原型になったスポーツ)が大好き。政治的に敵対しない限りは、気前のいい優しいおっちゃんだったそうです。おっちゃんは、かのハプスブルク家の主要な先祖の一人でもあります。
個人的な“推し”と気になる人々
イザボーはまた別として、管理人の推しはシャルル5世です。イザボーが会うことの無かった義理のお父さん、お舅さんに当たる人。シャルル5世は、百年戦争がちょうど始まった頃、ヴァロワ家の未来を担う存在として生まれました。
臆病だった青年時代から、苦労や経験を積んで立派な王様になり、信頼できる家臣や将軍に囲まれて快進撃を続け、勉強家でオタクな面もあったようです。メガネをいくつか所持していたと読んだことがあります。
激務と悲しみのうちに健康を崩して亡くなりますが、彼が幸せに長生きできていたら、また違った歴史があったかもしれません。もしイザボーと出会っていたら、どんな人間関係を築いていたのかも気になるところであります。
また、ジャン無畏公にも関心があります。
この関係図では、端にちょろっといるだけですが、1407年以降は、彼の独壇場になります。
何を考えているのか分からない、不細工で不気味な人だったと伝えられています。一方で妻子や弟妹たちからはとても愛されていたとのこと。どんな人か、まったく掴めません。
ただ、ブルゴーニュとフランドル周辺の広大な領地とパリを頻繁に行き来しつつ、非難轟々の殺人事件を犯しながら世論をひっくり返すことになる、恐ろしくパワフルで賢い人だったのは間違いないでしょう。
ジャン無畏公は、わりと近年、ベルギーの歴史研究者がすごいボリュームの伝記を出版したようで、いつかは見てみたいと思っています。
ほかにも、シャルル5世の最愛の母上ボンヌ・ド・リュクサンブールの、女系の系統も興味深いです。
ボンヌが持っていた時祷書に描かれた本人の姿(右)と、 チェコ・プラハの聖ヴィート大聖堂にあるボンヌ母エリシュカの胸像。 |
総括
学生時代に魅了された、この人たちの歴史が、今もやっぱり好きだなぁと改めて感じます。どうしたらこの残酷で、でもとびきり荘厳な中世末期のヨーロッパの世界に、もっと触れられるのでしょうか。
でもそんな世迷い言ばかりも言っておられませんので、関連人物がガラッと変わる1407年以降も、引き続き作っていければと思います。