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母タデアにまつわるWikipediaの怪

2023/02/01

家族 雑記

t f B! P L
Wikipedia英語版のタデア・ヴィスコンティ(イザボーの母)のページに、地味にすごいことが書いてあります。

英語版Wikipediaのタデアの記事
Wikipedia英語版の記事によると、イタリアから嫁いできたタデアはバイエルンの寒冷な気候が合わず、体調を崩しがちになり、しばしばミラノに里帰りしていたとのこと。
里帰りは、たいていは夫や子供たちも一緒で、30歳になるやならずで亡くなったのも、その呼吸器系の病気のためだった、というのです。
Gerd AltmannによるPixabayからの画像
最初にこの記述を見たとき、ひどくビックリしました。
イザボーの幼少期のエピソードや、若くして亡くなった母タデアがどのような女性であったのか、また彼女の身に何が起きたのかは、具体的な記録が発見されておらず、イザボーの伝記作家の誰一人として解明できていない“謎”となっています。

ところが、その核心に触れるようなことを、このWikipediaの記事ではさらっと書いているのです。

これが事実なら、イザボーは小さい頃、両親や兄とともに、何度もイタリアに行ったことがある、ということになるではありませんか。
タデアの「夫」はバイエルン公シュテファン3世にほかなりませんし、「子供たち」はイザボーと兄ルートヴィヒ以外にいないからです。
女親の頻繁な帰省となると、イザボーは幼少期の大半をイタリアで過ごした可能性だってあります。
なんという新事実発覚でしょう。

イザボーの母方の祖父ベルナボ・ヴィスコンティは、孫娘がフランスに嫁いだ直後の1385年12月、甥っ子ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティに反乱を起こされ、捕らえられて獄死しています。

イザボーは祖父を哀れみ、ジャンガレアッツォに対して非常に憤っていたらしく、これがイタリアとフランスの外交関係にも影響を及ぼしたと、イザボーの先行研究者マルセル・ティボー先生(Marcel Thibault:1874-1908)は書いています。
もしイザボーが幼少期にベルナボお祖父ちゃんと面識があったのなら、その憤りはより納得できるもの。

ところが、です。

よくよく見てみると、この「タデア帰省」の部分には、出典(情報の出どころ)が明記されていないのです。
記事の最後には、記事全体で使った参考文献が列挙されており、そのほとんどはGoogleブックスでも内容を確認できました。しかしどれも、他の部分の引用に使ったものばかりのようで、結局、一番知りたい部分は出典不明のままでした。

出典不明の情報は信じてはいけませんので、管理人はこの記述を信じたいけれど信じられない、というジレンマに陥っています。
世界中のどこかにこれを書き込んだ人がいるのでしょうが、その人は一体、何を根拠にこれを書いたのでしょうか。情報が細かく、妙にリアリティがあるのが謎すぎます。

Wikipediaに記された、イザボーの子供時代にも繋がる、母タデアの情報。

今後、これを裏付ける素晴らしい出典元に出会えるかもしれないし、一生叶わないかもしれません。

もし何かの拍子に出会うことができたなら、そのときようやく、この記事に書かれた宝物のような内容を信じることができるでしょう。

wikipediaはときどき見ておりますが、この記述が登場したのは、確か2019年頃。管理人にとっては「タデアWikipedia事件」とも言うべき大事件で、不思議で仕方がありません。

タデアのことは、いずれ別視点でも書いてみたいと思います。

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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