You Tubeで、大変に面白い動画を発見しました。
それが“The Rulers of Europe: Every Year”(ヨーロッパの君主たち:毎年)というタイトルの動画。
見どころ
領土の形と、君主の名前がさらっと書いてあるだけで、国名はありません。
そして、1年1年が高速で過ぎ去っていくので、ついていくのに必死。けっこう頭の体操になるような気がして、心地よい慌ただしさがあります。
再生速度を最低にまで落とし、画質を上げて、何度も見返すのが、最高に面白かったです。
音楽も迫力があってエモーショナルです。
どこがどうとか語り合える相手がいたら、もっと楽しそう。
基本的には帝国・王国だけなので、それらを構成していた無数の領邦、公領や伯領はスルーされているようです。
例えば、イザボーの父や兄が治めた、神聖ローマ帝国のバイエルン公領(現在のドイツ南東部)などは表示されていません。動画内では、巨大な神聖ローマ帝国があるだけです。
まずはシャルル6世・シャルル7世時代に注目
長い西洋史の中で、管理人が注目するのはやはり、中世末期のフランス&イングランド関係です。手始めにすることはもちろん、1380年代〜のシャルル6世治世を見ることでしょう(14:12~)。
1410年代後半から、イングランド王ヘンリー5世による猛攻が始まって、1420年代には北フランスが真っ赤っ赤じゃないか。
この状況から巻き返し、自身の治世が終わるまでに大陸から赤を追い出したシャルル7世(イザボーの息子)が強い。これについては、記事後半でも触れています
シャルル6世(左)と、英仏百年戦争に終止符を打った息子シャルル7世(右)。 |
管理人は彼らのことが大好きですし、病気や手ごわすぎる周辺人物など、ご本人たちの力ではどうしようもなかった側面もあり、悪く言うつもりはありません。
でも、息子シャルル7世が、親世代の始めた揉め事に巻き込まれたのは事実。
巻き込まれ、放り出され、満身創痍になりながら、一生かけて、両親の失態を挽回する以上のことを成し遂げた。聖女ジャンヌ・ダルクの他、いろいろな人たちの協力を得て…それがシャルル7世という王様かなと思っています。
フランス王国の成立
とりあえずシャルル6世時代の前後を見終えたら、次は時代を巻き戻し、10世紀のフランス王国の成立あたりからゆっくり見ていきました。
西暦987年、カペー王朝フランス王国が成立(11:02)。
イングランド王国の成立
このギヨームが、現在の英国王室の初代国王ウィリアム1世で、「ウィリアム征服王」と呼ばれています。
イングランド王国は、その成立時点から、フランス王国内に領地を所有していました。
従って、以降何百年もの間―それこそシャルル7世が大陸から追い出すまで、イングランド王国とフランス王国は、密接に関わり合っていました。
アンジュー帝国
青一色だったフランス王国の半分が、突然バッと水色に変わってしまいました。
あちゃ。時のフランス王は、カペー朝第6代のルイ7世。
王妃アリエノール・ダキテーヌは、自身が広大なアキテーヌ伯領の女伯でした。
アキテーヌ伯領は、フランス王国の南西部を構成する巨大な領土でした。
ところがこのアリエノール、30歳近くなってから、ルイ7世を棄てて11歳も年下の男のところに出奔して、彼と再婚してしまいます。
この男というのが、ノルマンディー公兼アンジュー伯アンリといって、彼は翌年、従叔父さんの死によってイングランド王位までGET。フランス王国を構成していた多くの領地が、あっというまにイングランド王の領地に化けてしまいました。もちろん、アリエノールの領有するアキテーヌ地方も。
それで、フランス王国がいつになくげっそり、痩せ細ってしまっていました。
アリエノール・ダキテーヌは、史上唯一、一人でフランス王妃にもイングランド王妃にもなった人でした。
フィリップ2世の巻き返しと、謎
でも、ジョン失地王の子ヘンリー3世の時代に、水色だったイングランド王の支配域が、いきなり赤に変わる理由が、よく分からない。
何か、あったかな?
学生時代は、この辺りのイングランド・フランス泥沼物語が大好きだったのに、近頃は他の時代にかまけて、詳細をすっかり忘れてしまいました。
お嫁さん話
モンゴル帝国の侵攻
間一髪、猛攻はドイツの辺りで止まりますが、もし、もっと西側にまでモンゴル軍に踏み込まれていたら、今日の形での西ヨーロッパの繁栄は、無かったかもしれません。
モンゴル帝国2代皇帝オゴデイ。チンギス・ハンの第三子。 甥バトゥをヨーロッパ遠征の総司令に任命し、バトゥの軍勢はドイツにまで迫ったとされる。 オゴデイの肖像画14世紀頃 故宮博物館 所蔵(Inv. nr. zhonghua 000324) 出典:ウィキメディア・コモンズ |
唐突に現れるブルゴーニュ公国
フィリップ豪胆公の肖像画。15世紀に繁栄を極めた「ブルゴーニュ公国」の祖。 開運招福、念願成就、子孫繁栄、家内安全、夫婦円満にご利益がありそう。 Portrait de Philippe II le Hardi de Bourgogne14世紀後半の肖像画の写し ルーヴル美術館 所蔵(Inv.3977) 出典:ウィキメディア・コモンズ |
支配地域が複雑になると、例外も出てくるということでしょうか。