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ヨーロッパ君主と領土の変遷

2023/05/13

楽しむ 雑記

t f B! P L

 You Tubeで、大変に面白い動画を発見しました。

それが“The Rulers of Europe: Every Year”(ヨーロッパの君主たち:毎年)というタイトルの動画。

見どころ

領土の形と、君主の名前がさらっと書いてあるだけで、国名はありません。
そして、1年1年が高速で過ぎ去っていくので、ついていくのに必死。けっこう頭の体操になるような気がして、心地よい慌ただしさがあります。

再生速度を最低にまで落とし、画質を上げて、何度も見返すのが、最高に面白かったです。
音楽も迫力があってエモーショナルです。
どこがどうとか語り合える相手がいたら、もっと楽しそう。

基本的には帝国・王国だけなので、それらを構成していた無数の領邦、公領や伯領はスルーされているようです。

例えば、イザボーの父や兄が治めた、神聖ローマ帝国のバイエルン公領(現在のドイツ南東部)などは表示されていません。動画内では、巨大な神聖ローマ帝国があるだけです。

まずはシャルル6世・シャルル7世時代に注目

長い西洋史の中で、管理人が注目するのはやはり、中世末期のフランス&イングランド関係です。手始めにすることはもちろん、1380年代〜のシャルル6世治世を見ることでしょう(14:12~)。

1410年代後半から、イングランド王ヘンリー5世による猛攻が始まって、1420年代には北フランスが真っ赤っ赤じゃないか。

この状況から巻き返し、自身の治世が終わるまでに大陸から赤を追い出したシャルル7世(イザボーの息子)が強い。
以降、イングランド王が大陸内に領地を所有することはありませんでした。
これについては、記事後半でも触れています
シャルル6世(左)と、英仏百年戦争に終止符を打った息子シャルル7世(右)。
シャルル6世とイザボーは、平和な時代に結婚し、遊び三昧・お祭り三昧の青春を過ごしました。お坊っちゃまお嬢ちゃま育ちで、とても気前のいい人たちではあったのですが、ひとたび戦争が始まると、なすすべもありませんでした。

管理人は彼らのことが大好きですし、病気や手ごわすぎる周辺人物など、ご本人たちの力ではどうしようもなかった側面もあり、悪く言うつもりはありません。

でも、息子シャルル7世が、親世代の始めた揉め事に巻き込まれたのは事実。

巻き込まれ、放り出され、満身創痍になりながら、一生かけて、両親の失態を挽回する以上のことを成し遂げた。聖女ジャンヌ・ダルクの他、いろいろな人たちの協力を得て…それがシャルル7世という王様かなと思っています。

フランス王国の成立

とりあえずシャルル6世時代の前後を見終えたら、次は時代を巻き戻し、10世紀のフランス王国の成立あたりからゆっくり見ていきました。

西暦987年、カペー王朝フランス王国が成立(11:02)。

初代フランス国王が、ユーグ・カペーというおじさんです。彼は、フランス最初の王朝・カペー朝の始祖になりました。
このときはまだ、現在の英国王室につながるイングランド王国はありません。

イングランド王国の成立

ところが、フランス王が何世代か下って、カペー王朝第4代フィリップ1世の時代、1066年。北フランスのノルマンディーと、海の向こうのブリテン島が、いきなり水色に変わります(11:40)。

フランス王の臣下だったノルマンディー公ギヨームが、ブリテン島に侵攻して、あちらの王様を兼ねることになったのですね。
このギヨームが、現在の英国王室の初代国王ウィリアム1世で、「ウィリアム征服王」と呼ばれています。

イングランド王国は、その成立時点から、フランス王国内に領地を所有していました。
従って、以降何百年もの間―それこそシャルル7世が大陸から追い出すまで、イングランド王国とフランス王国は、密接に関わり合っていました。
両者は、時には小競り合い、時には大規模な戦争を続け、切っても切れない関係にあったのでした。

アンジュー帝国

パリを中心としたフランス王国の基本形はあまり変わらないのですが、1152年、大事件が起きています(12:22)。

青一色だったフランス王国の半分が、突然バッと水色に変わってしまいました。

あちゃ。

時のフランス王は、カペー朝第6代のルイ7世。
王妃アリエノール・ダキテーヌは、自身が広大なアキテーヌ伯領の女伯でした。
アキテーヌ伯領は、フランス王国の南西部を構成する巨大な領土でした。

ところがこのアリエノール、30歳近くなってから、ルイ7世を棄てて11歳も年下の男のところに出奔して、彼と再婚してしまいます。
この男というのが、ノルマンディー公兼アンジュー伯アンリといって、彼は翌年、従叔父さんの死によってイングランド王位までGET。フランス王国を構成していた多くの領地が、あっというまにイングランド王の領地に化けてしまいました。もちろん、アリエノールの領有するアキテーヌ地方も。
それで、フランス王国がいつになくげっそり、痩せ細ってしまっていました。

アリエノール・ダキテーヌは、史上唯一、一人でフランス王妃にもイングランド王妃にもなった人でした。

フィリップ2世の巻き返しと、謎

フランス王国はすっかり小さくなってしまいましたが、しばらく見ていくと、1209年にフランス王フィリップ・オーギュスト(尊厳王フィリップ2世)が、イングランドのジョン失地王を相手に、かなり挽回しています。

でも、ジョン失地王の子ヘンリー3世の時代に、水色だったイングランド王の支配域が、いきなり赤に変わる理由が、よく分からない。
何か、あったかな?
学生時代は、この辺りのイングランド・フランス泥沼物語が大好きだったのに、近頃は他の時代にかまけて、詳細をすっかり忘れてしまいました。

制作者の気まぐれでないことを祈りますが、管理人が気付けていない理由がある、という可能性の方が高そうです。

お嫁さん話

フィリップ・オーギュストの孫にあたるカペー朝9代ルイ9世と、ジョン王の息子ヘンリー3世は、奥様同士(姉マルグリットと妹エレノア)が、南仏プロヴァンス出身の仲良し姉妹でした。
ルイ9世は、徳の高い行いから、後に「聖人」に列せられた人で、人生で2回、十字軍を率いて中東に遠征しました。
一方のヘンリー3世は、信心深く良き家庭人ではありましたが失政を繰り返し、最終的に、政治の実権をイングランドの貴族たちに握られることになりました。
先ごろ新国王の戴冠式が行なわれたロンドンのウェストミンスター寺院を、現在のゴシック様式に改修したのも、このヘンリー3世でした。

この2人の国王は、奥様への接し方も大分違っていたようで、ルイ9世は厳しめ、ヘンリー3世は超絶甘やかしてラブラブだったようです。

片やフランス王妃、片やイングランド王妃の姉妹は、この人たちだけでしょう。

モンゴル帝国の侵攻

西ヨーロッパにばかり注目しているうちに、いつの間にか、モンゴル帝国がガンガン侵攻してきます。
ルーシ、今のロシアにあたる地域が、次々にモンゴルの支配下に。

間一髪、猛攻はドイツの辺りで止まりますが、もし、もっと西側にまでモンゴル軍に踏み込まれていたら、今日の形での西ヨーロッパの繁栄は、無かったかもしれません。
モンゴル帝国2代皇帝オゴデイ。チンギス・ハンの第三子。
甥バトゥをヨーロッパ遠征の総司令に任命し、バトゥの軍勢はドイツにまで迫ったとされる。
オゴデイの肖像画
14世紀頃
故宮博物館 所蔵(Inv. nr. zhonghua 000324)
出典:ウィキメディア・コモンズ

唐突に現れるブルゴーニュ公国

ほかで気になったのが、イザボーの夫シャルル6世の治世のはじめ1385年に、フランス王国と神聖ローマ帝国(ドイツ)の間に、いきなり謎の領地が沸いてきます(14:15)。
最初、何だろう?と思いましたが、シャルル6世叔父・フィリップ豪胆公のブルゴーニュ公領でした。
フィリップ豪胆公の肖像画。15世紀に繁栄を極めた「ブルゴーニュ公国」の祖。
開運招福、念願成就、子孫繁栄、家内安全、夫婦円満にご利益がありそう。
Portrait de Philippe II le Hardi de Bourgogne
14世紀後半の肖像画の写し
ルーヴル美術館 所蔵(Inv.3977)
出典:ウィキメディア・コモンズ
1385年頃といえば、おっちゃんが息子と娘を神聖ローマ帝国ゆかりの諸侯と結婚させ、甥っ子シャルル6世とイザボーの結婚まで主導することに成功した頃。
この頃からおっちゃんの独走が始まったということでしょうが、他にもたくさんある公領・伯領がスルーされているのに、なぜブルゴーニュ公領だけ?と思いました。
後年、独立王国みたいになって、どんどん重要性が増していくからかな?

支配地域が複雑になると、例外も出てくるということでしょうか。

目下の課題

記事にYouTube動画の埋め込みができて、開始-終了時間を設定できるのも便利ですが、一度再生してしまうと同じ箇所に戻るのが至難の業です。
これを何とかできるか、というのが目下の課題です。

\イザボー周辺の人物関係図は、こちらもご覧下さい/

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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