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フランス宮廷における母タデアの追悼

2023/06/03

家族 文化

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今回は、フランス王妃イザボー・ド・バヴィエールが、フランス宮廷でも母タデアの追悼を欠かさなかったというエピソードを取り上げたいと思います。

AlexaによるPixabayからの画像

イザボー、母タデアの周忌行事をおこなう

イザボーと兄ルートヴィヒは、10歳を過ぎた頃に、母タデア・ヴィスコンティを亡くしました。
プレイボーイで結婚当時30歳前後という当時としては晩婚だったお父ちゃんに対して、15歳ほど年下だった、イタリア生まれのマンマでした。

兄妹が母親の思い出をずっと大切にしていたというのは、結構いろいろな本に書かれていて、Wikipediaにも載っていました。
この情報の出所と思われるのが、あるドイツ語の論文の一節です。これが大変、興味深い。

Insbesondere blieb Thaddaea ihren früh verwaisten Kindern unvergessen. In Paris ließ ihre Tochter, nachdem sie Königin von Frankreich geworden war, für sie jedes Jahr im September einen feierlichen Jahrtag abhalten, "l'anniversaire de madame Tatée de Bavière, mère de la Royne”, mit der gleichen Solennität, mit der die Jahrtage der Eltern und Großeltern des Königs selbst veranstaltet wurden. Und in Ingolstadt ließ ihr Sohn in seiner großartigen Gedächtnisstiftung, die er in der neuen Liebfrauenkirche errichtete, in erster Linie auch, “seiner mutter frauen Thatea von Mayland" gedenken. 

タダエア(タデア)は、幼くして遺児となった子供たちに、忘れられずにいた。パリでは毎年9月、フランス王妃となった娘によって、「王妃の母、バヴィエールのマダム・タテーの周忌」が、国王の父母や祖父母の周忌と同じ厳粛さで開催された。そしてインゴルシュタットでは、彼女の息子は「母メイラントのタテア」を、新しいリープフラウエン教会に建てた壮大な記念碑の中で、最重要に追悼することになった。
出典:Sammelblatt des Historischen Vereins Ingolstadt P.10

“”でくるまれた部分は、14世紀当時に書かれた原文からの引用で、特にフランス語の部分は、論文最後の註29で出典が明記されています。
それによると、フランス国立古文書館所蔵「KK45」「KK46」(フランス王家の会計簿)のいろんな所から、引っ張ってきているようです。

論文の概要

論文は、1968年に発行された、インゴルシュタット歴史教会の紀要・第77号に載っているようです。
ヴィッテルスバッハ家研究の専門家、テオドール・シュトラウブ(Theodor Straub)先生による“Die Mailänder Heirat Herzog Stephans III. des Kneißels und Das wirkliche Geburtsjahr Herzog Ludwigs des Bärtigen und seiner Schwester Isabeau de Bavière”(シュテファン3世・クナイセルのミラノ婚、および、ルートヴィヒ髭公と妹イザボー・ド・バヴィエールの本当の生年)という論文です。
紀要にはバイエルン史に関する様々な論文が掲載されており、今回取り上げた論文は、その冒頭を飾ったもの。

ドイツ語版Wikipediaのタデア・ヴィスコンティのページに、出典元としてリンクが貼られていたことで知り、自動翻訳で読めました。
情報を鵜呑みにしてはいけないWikipediaですが、運が良ければ、自力では絶対に掴めなかった出会いがあるものですね。

フランス人はどう感じていたか

地元バイエルンでお兄様がおこなっていたことはともかく。
タデアは、多くのフランス人にとっては会ったことのない、名前すら聞いたこともなかったであろう、遠いバイエルンの亡き公妃でした。
その公妃の周忌行事を、毎年、夫シャルル6世の父祖に対するのと同じくらいの厳粛さで執り行ったというのですから、イザボーの権勢がうかがえますね。

生母を悼む当然のこととして受け入れられていたのか。
「?!?!」と思われていたのか。
当時のフランス人はどう感じていたのでしょう。
ほかのフランス王妃で同じような例があったのか分からないので、ちょっと見当がつきませんが。

名前の表記が「madame Tatée(マダム・タテー)」になっているあたり、会計簿にこう書いたフランス人の戸惑いが感じられないでしょうか。
つづりが分からなかったので、聞こえたまま書いた感がありますね。
タデアという珍しい名前は、聞き慣れないものだったと思われます。

このエピソードから分かること

このエピソードからは、いろいろなことが分かりました。

悪名高いヴィスコンティ家の出身であり、あまり記録も残っていない母タデアが、子供たちにとっては絶対に忘れられない、大切な、大好きなマンマだったということ。

シャルル6世の宮廷では、国王の両親だけでなく、祖父母の周忌行事もおこなわれていたということ。
シャルル6世の両親である、シャルル5世とジャンヌ・ド・ブルボン王妃。
父シャルル5世・母ジャンヌ王妃・祖父ジャン2世はOK、祖母ってどなた。
シャルル5世母ボンヌ様のことか、あるいはジャン2世後妻の方かも、とも思えます。
ジャンヌ王妃の両親である、先代ブルボン公夫妻はどうだったでしょう。
祖父ジャン2世と、祖母ボンヌ・ド・リュクサンブール。
絵では可愛らしいボンヌ様。実際ものすごく美人だったそう。
そして、当時のフランス宮廷において、イザボーがかなり尊重されていたということ。
この件に代表されるように、イザボーは嫁ぎ先でその気持ちを大切にされていました。小さく控えめになっていなかったという言い方もできると思います。
そして、一事が万事そのような感じでした。
この我が道を行く感じは、平和な時代には勢いが感じられて良かったのかもしれません。
しかし後々世の中が乱れてくると、政敵にとっても貧しい人々にとっても、分かりやすい非難の的になったことは想像にかたくありません。

\フランス宮廷の関連人物について/

イザボー母の追悼行事の記述は、どこで見たのか記憶が曖昧でした。
改めて探したところ、いくら頑張っても見つからず。翌日、冷静になって、こちらの論文だったと思い出し、一件落着しました。
が、管理人的にはまだ納得していません。

このドイツ論文を知ったのはごく近年であって、タデア追悼のお話はもっと昔、何か紙の本で見たような気がするのだな。

\タデアについてはこちらでも触れています/
\タデアの生家、ヴィスコンティについて/

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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