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シャルル6世の正装

2023/09/08

芸術作品 文化

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暑さで冬眠ならぬ夏眠していましたが、9月に入ってから急にやる気が出た管理人です。
久しぶりに、イザボーたちの正装、フォーマルウェアについて書いてみます。

1390年頃、正装に身を包んだ20歳前後のシャルル6世夫妻の像。
学生時代、この写真に惚れてスキャンした。なんて素敵なお写真でしょう。
出典:『服飾の世界史〈資料編〉』丹野郁、白水社、1985 P.26

フランス国王の正装

フランス中世史の重鎮ベルナール・グネ先生は、『オルレアン公暗殺 中世フランスの政治文化』(岩波書店、2010年)という本の中で、中世末期のフランス王国のヒエラルキーにいて触れ、服装についても書いています。
それによると、シャルル5世・6世の時代、正式な場でのフランス国王の装いは「長衣」「上着」「マント」に「王冠」という格好でした。
これに「王笏」「正義の手」「正義の剣」を持つと、さらに最高位の正装になりますが、この3つは別格で、戴冠式とお葬式のときにしか出てこなかったとのことです。
つまり、「長衣」「上着」「マント」「王冠」が、直系ヴァロワ王朝中期の国王の正装でした。
マントはフランス王家の百合の紋章をあしらったもので、色は深紅やヒヤシンス色など時によって様々だったそうです。

グネ先生はまた、当時の年代記作家サン・ドニ修道士の「シャルル6世伝」から引用して、以下のように描写しています。

一三八九年に、王妃イザボー・ド・バヴィエールの戴冠のため国王が王宮礼拝堂に入ったとき、サン・ドニの修道士が証言するところでは、国王が身に纏っていたのは「目も鮮やかな深紅の衣装、すなわち長衣上着皇帝マント」であった。
引用:オルレアン大公暗殺 中世フランスの政治文化 P.61

長衣、上着、皇帝マント

正装についてもう少し掘り下げてみたいと思います。
当サイトで何度か引用させていただいている、イザボーの先行研究者マルセル・ティボー先生の著作があります。
この著作でも、先ほどのグネ先生の本と同じく、サンドニ修道士から引用した、イザボー戴冠式の日のシャルル6世の正装を描写しています。

«la tunique, la dalmatique, la robe à socques», et le manteau chlamyde de couleur écarlate, rubannés de rubans d'or de Damas, fourrés d'hermine et brodés de pierreries.

“チュニック、ダルマティカ、la robe à socques”と、宝石を縫い取りアーミンで裏打ちをして、ダマスカス金の留め金で留めた、深紅色のクラミュスマント。
引用:Isabeau de Bavière reine de France La jeunesse, 1370-1405


先に登場したベルナール・グネ先生の著作も、ティボー先生も、同じサン・ドニ修道士の記述を引用しているわけです。
グネ先生の方は邦訳なので、原著ではどうなっているのか知りませんが、おそらく、
「長衣」=la tunique
「上着」=la dalmatique
「皇帝マント」=le manteau chlamyde
と思われます。
が、la robe à socquesって何でしょう?
グネ先生の記述には、該当するものが見当たりません。

絵で見るシャルル6世の装い

ダルマティカもチュニックもマントも、キリスト教徒にとって、ローマ帝国時代から何百年もの歴史をもつ伝統衣装でした。
本記事トップ画像の「シャルル6世夫妻」の石像は、まさに正装をした姿です。でも服の構造がイマイチよく分かりません。
一方、画像だとこのように。
Dialogues de Pierre salmon(部分)
1405-1415年頃、パリ
フランス国立図書館 所蔵(MS Fr 23279, fol.53)
出典:ウィキメディア・コモンズ

Dialogues de Pierre salmon(部分)
1405-1415年頃、パリ
フランス国立図書館 所蔵(MS Fr 23279, fol.1)
出典:ウィキメディア・コモンズ
絵は石像から何年か後のもの。ロン毛のイケイケの若者だったシャルル6世は、少し年をとっています。
宝石を縫い取り、毛皮で裏打ちし、金の金具で留めたマントはサン・ドニ修道士の描写の通り。でもどれがチュニック(長衣)でどれがダルマティカ(上着)か分かんねぇ。石像とは、袖や首の辺りが違うように見えるし。
ともあれ、当のシャルル6世は―少なくとも若い頃は―この古めかしい正装を好きではなかったようです。

正装を好まなかった王様

ベルナール・グネ先生の本によると、父王シャルル5世は、大勢のお供を連れて馬に乗って外出したり、よその都市に出向いたりするときは、必ず正装をしていました。

ところが、新時代を生きるイマドキの若者シャルル6世は違いました。シャルル6世は人前に出るときでも正装を好まず、当世風の服を着ていました。
当時の記録者であるサン・ドニの修道士は「シャルル6世の格好は宮廷の人々と見分けがつかない」と書いています。

On lui reprochait aussi de ne point se conformer aux usage de ses ancêtres, et de n'avoir pris que rarement et avec répugunance  les ornements royaux, cest-à-dire le manteau et la robe traînante; il s'habillait  d'étoffes de soie qui ne le distinguaient pas des gens de sa cour, ...

人々はまた、彼(シャルル6世)が先祖の習慣に従わず、王の装い―すなわちマントと 長衣―を嫌ってほとんど着用しなかったことでも彼を非難した。彼は宮廷の人々と見分けのつかない絹の衣服を着ていた・・・。
出典:ISABEAU DE BAVIÈRE La mal-aimée
シャルル6世は、その人柄をみんなに慕われていて、流行にも敏感な若い王様でしたので、誰もおおっぴらに批判したりやめさせようとしたりはしなかったようですが、父王を知る人々は、残念に思っていたようです。

シャルル6世の家庭教師フィリップ・メジエール師が「司教が神聖で厳かな務めを果たすのに、貧しい司祭と同じように見えたなら、人民は尊敬の念を半ば以上失います」と遠回しに諫めたというエピソードを、グネ先生は紹介しています。

それだけに、1389年、嫁(イザボー)の戴冠式で21歳の王様が正装をして現れたとき、父王の旧臣たちは感激の嵐でした。
「お坊ちゃまが願いを聞き入れてくださった。立派になられて・・・」という、じいやのような気持ちだったのかもしれません。

以上、シャルル6世の正装についてでした。
イザボーの正装については、また。

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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