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シャルル5世とボンヌ・ド・リュクサンブール①

2024/03/30

家族 文化

t f B! P L

以前作った人物相関図にて、先祖も含むイザボーの周辺人物をざっとご紹介しました。その中で、義父シャルル5世の母ボンヌにも触れました。

シャルル5世自身のお母様に対する想いが、ボンヌの弟である叔父・神聖ローマ帝国カール4世と親しむ動機になった。
そして、英仏百年戦争中の国際情勢もあいまって、我が子には「神聖ローマ帝国から妃を迎えるよう」遺言した、という件です。

シャルル5世と母ボンヌ・ド・リュクサンブール。
神聖ローマ帝国バイエルンの公女だったイザボーが、フランスに来る遠因にもなったと考えられるボンヌの件について、記録しておきたいテキストを見つけたので、記事にしてみました。
\人物相関図はこちら/

ヴァロワ家の中興の祖

イザボーの義父に当たるシャルル5世は、ヴァロワ朝の中興の祖ともいうべき優秀な国王でした。

当時の女流作家クリスティーヌ・ド・ピザンが伝えてくれる「シャルル5世の1日」は穏やかでほほえましいですが、実際は超多忙だったでしょう。そして常に病がちでした。

それでも、没後早々に弟たちの専横が始まったのを見ると、シャルル5世の存在は偉大でした。彼がいることで抑え込まれていたものは、大きかったのだと思います。

シャルル5世の彫像。
Charles V, roi de France
1365年~1370年頃(14世紀の第3四半期)
イル・ド・フランス
ルーヴル美術館 所蔵(RF 1377)
出典:ルーヴル美術館
© 2012 RMN-Grand Palais (musée du Louvre) / Thierry Ollivie

シャルル5世の説明はWikipediaにお任せしますが、彼には政治家のほかに父親としての顔があり、王太子を溺愛していたことは以前に書きました。

そんなシャルル5世にも両親があり、心から慕ったお母様がありました。

\王太子を可愛がるシャルル5世はこちら/

最愛の母ボンヌ

シャルル5世の母親はボンヌ・ド・リュクサンブールといい、現在のチェコにあたるボヘミアの王女と、婿入りしてボヘミア王になったルクセンブルク伯の間に生まれた娘です。

神聖ローマ皇帝カール4世は、すぐ下の弟。

ヴァロワ朝初代国王フィリップ6世の世継ぎ・ノルマンディー公ジャン(のちにジャン2世として即位)は、夫。

シャルル5世は長男にあたります。

シャルル5世がまだ少年だった1349年、世界史に残るおびただしい犠牲者を出したペスト(黒死病)大流行の中で亡くなったとされています。

シャルル5世の両親、ジャン2世とボンヌ・ド・リュクサンブール。ボンヌが所有していた時祷書に描かれた、夫妻の姿。
The Prayer Book of Bonne of Luxembourg, Duchess of Normandy
(ノルマンディー公妃ボンヌ・ド・リュクサンブールの時祷書)
1349年以前
パリ
メトロポリタン美術館 所蔵Inv.69.86 fol.328
管理人がボンヌを「シャルル5世最愛の母」と表現するのは、ずばり、シャルル5世はボンヌの側に埋葬されるように遺言し、その通りに叶えられたからです。

シャルル5世の埋葬

賢明王と呼ばれたシャルル5世は、自身の死後のことにも気を使っていました。
遺体を「亡骸」「心臓」「内臓」の3つに分け、3ヶ所それぞれ違う場所に“分散埋葬”されることを遺言しています。

一つ。「亡骸」は、フランス王家の菩提寺であるパリ郊外のサン・ドニ教会に。

二つ。「心臓」はフランス北部ノルマンディーのルーアン大聖堂に。

三つ。「内臓」は、母ボンヌの眠るパリ北西モービュイソンの王立修道院に。

一つ目はもちろん、フランス王として。

二つ目は、ノルマンディー地方への個人的な愛着に加えて、イングランドに対して同地の領有権を主張する狙いがあった、という説があります。

こう説明しているのは、中世フランス王族の埋葬についての論文集“D'OR ET DE CENDRES”の第11章。分散埋葬の文化に触れた“Les sépultures de cœur et d’entrailles”(心臓と内臓の埋葬)という論文です。
こちらも、前回のベリー公サイン論文と同じくOpenEditionBooksで全文公開されています。

\論文の閲覧はこちら/

脱線しましたが、最後三つ目が、お母さんへの素朴な気持ち。
こちらは特に政治的意図はなかったようで、サン・ドニやノルマンディーのように大がかりな事前準備をしていた記録も無いと、“Les tombeaux de Charles V”Pierre Pradel(『シャルル5世のお墓たち』ピエール・プラデル著)という論文にあります。
\論文の閲覧はこちら/
シャルル5世の分散埋葬は、それ自体が興味深いので、また記事にしたいと思います。

遺言の原文

内臓は母の側に、のお話はわりといろいろな書籍に紹介されているようですが、今回、Googleブックスで遺言そのものの原文を発見したので、メモに残しておきたいと思います。

Quant il plaira à nostre dit createur nous appeller et oster de ce monde, nous voulons nostre corps estre divisé en trois parties, c'est assavoir nostre corps estre mis en l'eglise de mons. saint Denys, en la chapelle que fondée y avons, nostre cuer en l'eglise de Rouen, et noz entrailles en l'eglise Nostre-Dame-la-Royal dit (sic) Maubuisson empres Pontoise, lez le corps et sepulture de nostre tres chiere dame et mere....

創造主が私を召し、この世から去らせることをお望みになるとき、私の肉体を3つの部分に分けること、つまり私の遺体はモン・サン・ドニ教会に設立された礼拝堂に、心臓はルーアンの教会に、そして内臓はポントワーズ近くの王立ノートル・ダム教会(中略)モービュイソンに、私のいと親愛なるお母様の御身とお墓の近くに安置されることを望む...。

出典:Histoire de Charles V-第5巻 P.430

載っているのは、シャルル5世研究に身を捧げたといわれる20世紀初頭の歴史家ローラン・ドラケナル先生の大作『Histoire de Charles V(シャルル5世の歴史)』の最終第5巻。1374年10月にムランでしたためられたもの、とのこと。
日本語の方は、相変わらず管理人による拙訳のため、ニュアンス程度で受け取っていただけると幸い。
引用箇所の閲覧はこちらHistoire de Charles V
Googleブックス

かつてはモービュイソン修道院の母親の側にあった、自身の内臓の入った袋をもつシャルル5世の彫像。
Charles V roi de France (+ 1380) tenant le sac contenant ses entrailles
1374年以降
イル・ド・フランス
ルーヴル美術館 所蔵(LP 440)
出典:ルーヴル美術館
© 2012 RMN-Grand Palais (musée du Louvre) / Thierry Ollivie

遺体風化事件

さらに調べていると、およそ300後の17世紀に、モービュイソン修道院で起きた遺体風化事件にまつわる文書を、Googleブックスで見つけました。

載っているのは、“
Cartulaire de l'abbaye de Maubuisson(NOTRE DAME LA ROYALE)”(『モービュイソン修道院(王立ノートルダム教会)の証書集』)という、なんと1800年代後半の著作物。

Pihan de la Forest rapporte que lorsque, en 1635, Madame Suyreau fit déplacer les tombes de Bonne de Bohême et de Jeanne d'Évreux, dont il va être question plus bas, on trouva ces deux Reines encore assises dans leurs sièges, parées de leurs habits et leurs cheveux tressés d'or. La surprise d'un tel spectacle ayant porté à s'en approcher trop près et avec trop de précipitation, l'air que l'on agita réduisit en poussière ces corps et leurs ornements, qui n'avoient que l'apparence de la solidité.

ピアン・ド・ラ・フォレスト(※1)は報告している。1635年、スイロー夫人(※2)が後述のボンヌ・ド・ボエームとジャンヌ・デヴルーのお墓を動かした際、2人の妃たちがいまだに彼女らの椅子に座り、彼らの服装と金の編み込みの髪を身につけているのを発見した。このようなスペクタクルの驚きであまりに近づきすぎ、また急ぎすぎたため、かき回した空気が、個体にしか見えなかった彼女らの身体と装飾品を塵に変えてしまった。

出典:Cartulaire de l'abbaye de Maubuisson P.119

※1 ピアン・ド・ラ・フォレスト・・・・・・
1739年ポントワーズ生まれのお偉いさんで史料収集家(“Bibliographie de la ville et du canton de Pontoise” P.158より)

※2 スイロー夫人・・・・・・
モービュイソン修道院の17世紀の大修道院長?(“Modèle de foi et de patience dans toutes les traverses de la vie et dans les grandes persécutions ou Vie de la Mère Marie des Anges (Suireau), abbesse de Maubuisson et de Port-Royal”より。wikipediaにもそのように書かれている)。修道院を改修した人物っぽい。
引用箇所の閲覧はこちらL’abbaye de Maubuisson(Notre-Dame-la-Royale)
Googleブックス

えっと・・・ツッコミどころが多いですが。

防腐処置されて300年間キレイに保たれていたものが、空気に触れて一瞬で風化したのだろうというのは、なんとなく分かる。

その前にまず、大理石と思われる巨大なお墓を、女性一人で動かせるのか?

なぜ棺桶の蓋を開いた?

そして、ご遺体は寝かして埋葬されるものではないのか。なぜ座っていた?

・・・まあいいや。
ともかくボンヌ様は、時祷書の絵に表されている通りに、可愛らしい編み込みのヘアスタイルをしていたってことでしょうか。髪色も絵と同じく金髪だったってことかしら?
弟カール4世は黒髪っぽいですが、きょうだいで髪質も髪色もバラバラなのは、ヨーロッパ系あるあるですね。

今後に続く?!

シャルル5世の子供時代のことや、お母様とどういう関わり方をしていたのかは、記録が残っていないため、よく分からないそうです。

それでもこの埋葬の件からは、親子の間にあった愛情も、シャルル5世の無念もうかがい知ることができます。

11歳のときに亡くなったお母さん。
ずっとずっと会いたかったんだろうな。

さて、シャルル5世がこれほど慕った大切なマザーは、いかなる女性であったのか。

どう、イザボーのお話と繋がるのか。

今後に続く、かもしれない。

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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