前回の続きで、シャルル5世の母ボンヌ・ド・リュクサンブールに絡めて、イザボーにも関わってくるフランス王権や、フランス王家とルクセンブルク伯家の関係性にも触れてみたいと思います。
両親の結婚
シャルル5世が母親ボンヌを思慕して残した遺言は前回記事のとおり。今回の記事の関連地域における、現在の姿。 領土は中世当時とは異なる。 |
ヨハンはエリシュカより4歳年下、14歳の少年でした。
当時の神聖ローマ帝位は選挙制で、諸侯から選ばれるもの。
皇帝ハインリヒ7世も、先祖代々の本拠地はフランス王国の隣ルクセンブルク伯領であり、フランス王家とも親しい間柄でした。
修道院育ちで、すでに両親もうしろ盾もなく、あったのは意志の強さと愛国心という18歳のお嬢さんが、自分で考えて選んだ道は、果たして正解だったのでしょうか。
彼女個人の波乱と、やがてこの結婚がボヘミア王国にもたらす栄光を天秤にかけると、何とも言えません。
チェコ・プラハの聖ヴィート大聖堂にある、 ボヘミア王ヨハンと王妃エリシュカの石像。 |
ボンヌの生い立ち
それから5年後の1315年、二人の次女として生まれたのがボンヌです。OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像 |
エリシュカが「この子はほとんど誰からも歓迎されていないのだから、私が一層大事に愛してあげなくちゃ」というようなことを言ったと、チェコ語版Wikipediaに、当時のズヴラスラフ年代記から引っ張られています。
Roku Pána 1315 dňa 21. mája v prvú hodinu sa narodila pánovi Jánovi, kráľovi českému, grófovi luxemburskému, druhá dcéra, Jitka, a pri jej narodení sa ľud znepokojil preto, že sa čakalo narodenie syna. Uvažujúc to matka tohto dievčata, pani kráľovná Eliška, takto predo mnou pravila: "pretože takmer nikto nemá rád toto dieťa, preto ho musím ja mať rada tým vrelšie...
私たちの主の年1315年、5月21日、最初の時刻に、ボヘミア王・ルクセンブルク伯ヤン様の次女イトカが生まれた。彼女の誕生に際して、人々は息子を期待していたので気を揉んだ。このことから、この女の子の母親であるエリシュカ王妃様は私の前でこう言った: この子を愛している人はほとんどいないのだから、私はこの子をもっと暖かく愛さなければならない......出典:wikipedia
翌年には、Jitkaの弟、後に神聖ローマ皇帝カール4世となるヴァーツラフが生まれています。
かのミュシャ先生が手がけた、エリシュカ妃と息子ヴァーツラフの壁画、の絵葉書。先生も皇帝も「チェコの偉人」であり、文化・芸術の都パリで学び、祖国の発展に尽くしたのは共通点。 (葉書は「絵葉書資料館」オンラインショップで取扱あり) |
不安要素しかありませんね。
方針の不一致や、取り巻きたちの思惑もあって、やがて国王夫妻は大喧嘩し、ヨハンがエリシュカを追い出す形で、子供たちの身柄とボヘミアの実権を握りました。
とはいえ、ヨハンはボヘミアに長居する気も、ボヘミアで子育てする気も無かったようです。頻繁にボヘミアを留守にするかたわら、子供たちもヨーロッパ中の貴族の家に里子に出しています。
将来の結婚やキャリア形成も見据えてのことだったようです。
長女マルケータはバイエルンの、イザボーのヒイオジイサンの親戚のところへ。
次女Jitkaはマイセン辺境伯のお家へ。
第3子で長男のヴァーツラフは、ルクセンブルク家が尊崇するフランス王国の都パリへ。
こうして1322年、Jitkaは7歳でマイセン辺境伯の家で育てられることになりました。
当時のフランス王国
ボヘミア王ヨハンはやがては病のために失明することになりますが、英仏百年戦争における「クレシーの戦い」ではフランス軍を率い、従者に導かれて戦い抜き戦死を遂げた、勇猛な騎士でありました。文字通り、死ぬまでヨーロッパ中の戦場を駆け回った武人です。
フランス王と同盟した猛将として散ったヨハン。
父ハインリヒの代にはすでにフランス王家とがっちり結び付いていました。
ヨハンが生まれた頃にフランスを治めていたのは、当時、破竹の勢いで王権を拡大していたカペー王朝11代国王フィリップ4世でございます。
フィリップ4世と家族。 Kalila wa Dimna, trad. Raymond de Béziers(部分) 1313年、パリ 出典:ウィキメディア・コモンズ |
フィリップ4世の研究者・E.A.R.ブラウン女史の言葉を借りれば、
During Philip's reign was promoted a conception of the French monarchy far grander and more militant than had ever before been advanced: the king of France was presented as 'the leader of the cause of God and the the Champion of all Christendom.'
フィリップ4世の治世は、それ以前よりもはるかに強力で戦闘的なフランス君主制の概念が推進され、フランス国王は「神と教会の大義の指導者、そして全キリスト教世界の擁護者」と称した。出典:PHILIP THE FAIR OF FRANCE P.283
ボヘミア王の親フランス政策
カペー王朝はおよそ300年もの間、まっすぐに直系で続いた驚異の王朝でした。
13世紀の終わり頃~14世紀の初頭にかけては、フィリップ4世王のもとフランス王国は繁栄を謳歌していました。
そのようなわけで、王家に憧れてよしみを結びたいと願う近隣諸侯は多くあったことでしょう。ルクセンブルク伯家もその一つでした。
フィリップ4世の毎日の居場所を追いかけた狂気の本を開いてみると・・・。
1292年6月9日、フィリップ4世臨席のもと、パリはシテ島セントシャペルで、ルクセンブルク伯ハインリヒ(=後の神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世)の結婚式がおこなわれたことが分かります。
花嫁、つまりヨハンの母は、王太后マリー(フィリップ4世の継母)の姪っ子でもありました。
この流れからも、ハインリヒ夫妻や長男ヨハンのフランスびいきは推して知るべしです。
そして、ヨハンもおそらくはフランス宮廷とパリ大学で学び、成長した後は、たがうことなく王家との婚姻関係を推進しました。
1322年、妹マリーをシャルル4世(フィリップ4世の三男)の王妃に。
1323年、長男ヴァーツラフの妃には、フィリップ6世(シャルル4世死去とカペー朝断絶後、ヴァロワ朝初代国王)の妹を迎えて。
やがてここに娘も組み込まれるでしょう。
ヨハン自身は、妃エリシュカ亡き後、1334年に傍系ブルボン家のお姫様を再婚相手に迎えることになります。フランス王室への愛がすごい。
カペー朝末期にお妃様方がブルゴーニュだらけになった時期がありましたが、それを塗り替える勢いです。
つまり、フランス王室とルクセンブルク家のお付き合いには、何世代にもわたる長い伝統があったということです。
このことは、今後予定しているイザボーの記事のときに蒸し返す予定です。
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