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シャルル5世とボンヌ・ド・リュクサンブール③

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慈善活動

1349年9月、ペストが蔓延する中でボンヌは亡くなり、前年か同年の12月には義母のフィリップ6世妃ジャンヌも同じ運命を辿ったとされています。

“PLAYING BY THE "RULES:" MONASTIC ORDERS AND RELIGIOUS IDENTITY IN THE PSALTER AND HOURS OF BONNE OF LUXEMBOURG”(『規則に則って役割を果たす ボンヌ・ド・リュクサンブールの詩編と時祷書における、修道会と宗教的アイデンティティ』)という論文。“Reflections on Medieval and Renaissance Thought”という論文集の中の一つですが、この論文によると、この直前の1348年、二人は慈善活動の一環として、パリのオテル・デュー(施療院)に次々運び込まれるペスト患者たちの介抱にあたっていた、としています。


In 1348, the plague struck Paris, filling the Hôtel Dieu with patients too poor to go anywhere else. Among the noblewomen administering to those afflicted was Bonne of Luxembourg, Duchess of Normandy (1315-1349). Bonne and her mother-in-law, Jeanne of Burgundy (1293-1349), came to the Hôtel Dieu, located next to the Cathedral of Notre Dame, to perform acts of charity among the less fortunate.

1348年、ペストがパリを襲い、貧しすぎてどこにも行けない患者がオテル・デューを一杯にした(お金があれば他も選べたということ?)。これらの苦しむ人々を治療した貴族女性のなかには、ノルマンディー公妃リュクサンブールのボンヌ(1315-1349)がいた。ボンヌと彼女の義母ブルゴーニュのジャンヌ(1293-1349)は、ノートルダム大聖堂の隣のオテル・デューに、恵まれない人々の間で慈善活動をするためにやって来た。

出典:Reflections on Medieval and Renaissance Thought P.44

ペストは、シャルル5世史において避けて通れない出来事。
このとき、5世の家族の中で、母と祖母だけが同時期に相次いで亡くなったというのは、不思議ではありませんか。
この慈善事業が本当だとすれば腑に落ちます。
つまり、二人の死は“殉難”だったということになります。
が、論文ではそこまでは言及していません。

後世に爪痕を残す史上最悪のパンデミックでしたので、感染のメカニズムは知らずとも、人から人へうつること、感染すれば自分たちも命がないことは、嫌でもご存じだったはず。

それでも使命を果たそうとしたのかもしれないし、大切な人を失って悲しむ人を慰めようとして、患者に近づきすぎたのかもしれない。

ボンヌは「慈善事業に努めよ」と教える修道女たちとともに、長らく修道院で暮らしてきました。
ボンヌが大事に持っていて、やがて子供たちに受け継がれた時祷書・詩篇にも、そのような慈善活動の考えが表されているとのこと。

このことに専門的に触れているのは、前掲論文に加えてもう一つ“Pilgrimage in the Psalter of Bonne of Luxembourg”(ボンヌ・ド・リュクサンブールの時祷書における巡礼)という論文。
前掲論文と同じく、キリスト教の教義にも関係する難解なことが書かれているので、管理人が理解するには程遠く、読み込みも必要でしょうが、「ボンヌの時祷書にはキリスト教徒としての彼女の信念が表されている」「善行を積んで神様のいる階段を上っていく」というような内容だと解釈しました。

殉難の謎

シャルル5世の最愛のお母さんは、慈善活動に従事した慈悲深い女性で、結果としてペストに罹患してしまったのでしょうか。

しかし今のところは、前出のマショーの研究書P.24にあるように、ボンヌの死は「不明瞭」というに留めておいた方がよさそうです。

というのは、突き詰めようとすると他に史料が見当たらないんですね。
それどころか、ちょっと踏み込むと全然違うことが言われていて、びっくりする。
モービュイソン修道院に埋葬された経緯すら、ペストとの前後関係がよく分からない。


ペストに罹患後、モービュイソン修道院に運ばれて亡くなった。
(ドラケナル先生のシャルル5世伝 第1巻)

不倫して修道院に放り込まれたあげく、ペストに見舞われた。
(Eliška Přemyslovna - Královna česká P.89)

ペスト患者の介抱の末に亡くなったことを示唆
(PLAYING BY THE "RULES:)

夫ジャンに殺害されたという噂
※もはやペストと関係がない。『シャルル5世伝』や“Guillaume de Machaut: A Guide to Research”では、百年戦争中に政敵が「シャルル5世と父親の仲を裂くために、意図的に煽ったデマ」であることを示唆している
(Guillaume de Machaut: A Guide to Research/
FEMALE BOOK COLECTORS IN THE VALOIS COURTSほか)

ペスト患者の介抱に当たっていて殉難したのと、ジャン2世に殺害されたのとでは全っ然、話が違いますが。

なんだか・・・錯綜している。
この後の畳みかけるようなパリ大混乱のせいで情報がどこかへ飛んでいったんだろうな、とは思います。

無償の愛

ボンヌの死の翌年、夫ジャンがジャン2世として即位。さらに14年後の1364年には、長男シャルルがシャルル5世として即位しました。
そのため、ボンヌは結果的には「フランス王の母」になりましたが、「フランス王妃」にはならなかった人。
東アジアなら、後で息子から肩書きを贈られるような立ち位置なのだろうけれど、彼らにはそういう習慣はなかった。ボンヌはフランス王の世継ぎの妃で、ノルマンディー公妃。慎ましやかにそれだけでした。

ボンヌがどんな人だったのかは、数少ないエピソードにほかの家族の人柄を重ね合わせて想像するしかありません。

大国の王女に生まれながら、望まれない女の子、流転の子、政治の駒、ペストで命を落とし、好きだった旦那はさっさと再婚しています。
概要だけを見ると、物悲しい雰囲気を感じる。

それでも今回調べてみて、彼女なりに夢中になれることに出会い、精一杯自分にできることをしながら走り切ったのではないかしら、少なくともそう考えたいものです。

何といっても彼女には、文字通りゆりかごから墓場まで、無償の愛を捧げてくれた人たちがいました。
「この子は誰からも愛されていない」から母だけは特別に思いをかけてあげなくちゃ、というところから始まった人生でしたが、死後までもずっと一緒にいたいと望んでくれる我が子に出会うことができました。

このことは、ボンヌの儚い生涯における、大きく、温かく、明るい救いのように思えるのです。

最後に

今回でボンヌ・ド・リュクサンブールは一旦終了です。
イザボーが途中で止まっているから、こればかりは投げ出せないの気持ちで頑張った!

イザボーの結婚の背景には、フランス王家とルクセンブルク家の長い歴史が横たわっていました。
そのお話の時には、存命であれば大王太后だったはずのボンヌ様のことも、思いを寄せてくださいませ。

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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