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シャルル5世とボンヌ・ド・リュクサンブール③

2024/05/18

家族 文化

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ようやくフランス王太子妃に落ち着いたボンヌが精を出したのが、慈善活動と信仰生活、作曲家ギヨーム・ド・マショーの後援という、慎ましやかなものでした。
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父ヨハンから受け継いだもの

家族を散り散りにした張本人である一方、優秀な外交官・武人でもあった父ヨハンは、病のために1340年には両目の視力を失ってしまいます。

Packare. 2014.Bust of John the Blind (died 1346), Count of Luxembourg, King of Bohemia, St Vitus Cathedral, Prague.
1346年は、百年戦争における有名な戦闘の一つ、クレシーの戦いが起こった年でした。

この少し前、イングランド軍侵攻を耳にしたヨハンは、ルクセンブルクとボヘミアの騎士団を率いて、息子とともにフランス王の援軍に馳せ参じました。

クレシーに至る前哨戦での戦果は芳しくなかったものの、必ず先陣を切っていたヨハンはヒートアップ。
ドラケナル先生のシャルル5世伝(第1巻)によれば

S'il faut en croire les chroniqueurs bohémiens, qui exagèrent maladroitement par amour-propre national, il aurait entraîné Philippe VI hésitant et, plus que lui, perdu le sang-froid et oublié toute prudence.

自国愛によって不器用に誇張するボヘミアの年代記作家たちを信じるならば、彼(ヨハン)はためらうフィリップ6世を引きずり、フィリップ6世以上に冷静さを失い、分別を忘れていた。

出典:Histoire de Charles V-第1巻 P.22

ヴァロワ朝初代国王フィリップ6世。
即位早々の百年戦争とペストによる政情不安に精一杯対処。終盤はお疲れのあまりか現実逃避に走ることに。
Procès de Robert III d'Artois, comte de Beaumont.
1301-1400、パリ
フランス国立図書館 所蔵(MF18437, fol.2)
出典:ウィキメディア・コモンズ
同書のラテン語史料引用箇所を翻訳にかけてみたところ、どうもヨハンはイングランド軍を徹底的に追い出したかったようで、フィリップ6世が「今は交戦の時ではない」と判断したときでもまったく言うことを聞かなかった様子。
逆に王様をお説教したりしながら、会戦に持ち込んだという感じ。
無論、ヨハン一人の判断でコトが進んだわけではないだろうけれど。

そして、運命の決戦場となったクレシー。
ヨハンは、「我々もお供して二度と戻りません」と誓う従者たちに導かれて、激しい混戦のただ中に突撃していったとされています。

ColleenによるPixabayからの画像
敵味方の雄叫びとともに、頭上からは矢が降り注ぎ、戦斧やメイスで殴られ、ひとたび落馬すれば軍馬が倒れ込んでくる。
そのような中に、目が見えない真っ暗な状態で突入していく。
お供の騎士も、運命を共にする。

想像を絶する凄まじい覚悟です。

クレシーの戦いはフランス軍の大敗に終わりますが、ヨハンの最期は当時の年代記作家たちに強烈な印象を残したようです。
そのため、いろいろな視点からの証言が今に伝わることになりました。

ボンヌが亡くなる3年前、シャルル5世が8歳だった1346年8月のことでした。

父の死後、ボンヌは父に仕えた作曲家ギヨーム・ド・マショーをパトロンとして後援することになりました。また、この作曲家のみならず、パリのお屋敷も受け継いだようです。

管理人、昨年の大晦日にひっそりとパリマップを作ってましたが、その中にボエーム館というのがありました。

右岸(上)にある内側の方の城壁(フィリップ2世城壁)の内・外にかかるお屋敷。
あれはボンヌが父親から引き継いだ不動産だったとのこと。
これはそのうち巡り巡ってオルレアン公ルイルイとヴァレンティーナ夫妻(2人ともボンヌの孫)のものになり、さらに時代が下ればカトリーヌ・ド・メディシスの所有になるになるでしょう。

自分のお屋敷を持っていたり、旦那様と離れて独自行動をとったり。
ボンヌに限らず、中世末期のフランス王族女性は、意外に自由度が高いという印象。

パリ16OpenStreetMap の貢献者H. ノイゼ、A.-L. ベーテ、N. フォシェール (パリ都市空間の時系列分析)を一部加工。
CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

マショーの後援

ギヨーム・ド・マショー(Guillaume de Machaut:1300-1377頃)という人は、ランス出身の、中世後期の音楽様式「アルス・ノーヴァ」を代表する作曲家ですね。

もとはヨハン父さんにお仕えしていて、ヨハンが戦死した後に娘ボンヌに仕えました。

ギヨーム・ド・マショーの姿絵(右端)。マショー先生は、他の絵でもおかっぱヘアに力強い輪郭で描かれている
Guillaume de Machaut , Poésies .
1372-1377年頃、パリ・ランス
フランス国立図書館 所蔵(MF1584, fol.Er)
出典:ウィキメディア・コモンズ

例によって、Googleブックスで、中世音楽の権威ローレンス・アープ先生の著作“Guillaume de Machaut: A Guide to Research”をのぞくことができます。

これによると、マショーが「ボンヌ様をモデルに書きました!」等々はっきり明言している作品はほとんど見当たらないものの、多くの楽曲や歌詞が、ボンヌの影響下で手がけられたと考えられるのこと。

『ナヴァール王の審判』という作品は、ボンヌの特別な依頼で着手された。
マショーは作品の数々を、彼女の宮廷の様子からインスピレーションを得て作ったただろう。
またレクイエムもボンヌに捧げられた。
と先行研究も踏まえて書いています。

マショー先生の音楽たちは、21世紀の今でも現役で、YouTubeでも演奏されている動画を見ることができます。

中世音楽は荘厳で、聴いていると心が洗われるよう。
CDもたくさん出ているようだし、インスタグラムでは多彩なカバー曲も含めて楽曲を使うこともできます。

シャルル5世もきっと母上と一緒に鑑賞・演奏したであろうマショー先生の音楽で、一度リールを作ってみたい。

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中世末期の西ヨーロッパ史、特に王家の人々に関心があります。このブログでは、昔から興味のあったフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールについてを中心に発信します。

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