『ピエール・サルモンの問答集』という写本に描かれた、国王シャルル6世と秘書ピエール・サルモン。 Dialogues de Pierre salmon(部分)1412年~1415年頃、パリ Bibliothèque de Genève 所蔵(MS fr 165, fol.4) 出典:e-codices |
1385年の夏、イザボーと結婚した旦那様が、ヴァロワ朝第4代国王シャルル6世。
1392年に24歳の若さで精神の病に陥り、フランス史に「狂気王」として名前を残す国王です。
しかし発狂以前は、スポーツが得意な、はつらつとした好青年で知られ、人々を喜ばせることが大好きな親切な王様でした。
自身が一目惚れして結婚を即決したイザボーのことも、とても大事にしていました。
普段の贈り物はもちろん、地方に出かけてイザボーと離れて過ごすときにもお土産を忘れなかったり、旅先から頻繁に手紙を交換していました。
何より、イザボーの愛する友達や兄をフランス宮廷に受け入れ、大切にしてくれていたのは、大きな愛情の証でしょう。
シャルル6世にはいろいろなエピソードが伝えられています。
今回はその生い立ちを、大切に大切に育てられた王太子時代を紹介したいと思います。
待望の王太子
父王シャルル5世は、波乱の王太子時代を経て、1364年、フランス王に即位。イングランド軍に奪われた土地を奪還し財政的にも大成功をおさめましたが、子供を授かるということに関しては、何度も悲しい思いをしました。
シャルル6世の両親、ヴァロワ王朝3代国王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの彫像。 Charles V, roi de France - Jeanne de Bourbon, reine de France 1365年~1370年頃(14世紀の第3四半期) イル・ド・フランス 出典:IMAGES D'ART Photo © 1996 RMN-Grand Palais (musée du Louvre) / Hervé Lewandowski |
ジャンヌ王妃は、両親はじめ何人もの先祖がフランス王家の縁者であったといわれています。そこにもってきてシャルル5世と結婚したのですから、夫婦の血縁関係の近さもあってか、子供たちは病弱でした。
誕生しては亡くなり、シャルル5世と王妃は気も狂わんばかりでした。
そんな中、王が30歳の1368年12月、待望の王太子シャルル、のちのシャルル6世が誕生しました。
1368年、待望の王太子として誕生。洗礼式の様子も写本挿絵に残されている。 Grandes Chroniques de France 1375年~1380年頃、パリ フランス国立図書館 所蔵(MS Fr 2813, fol.446) 出典:BnF Gallica |
シャルル5世夫妻としては、それまでの子供たちの早逝を思うと、無事に育ってくれるのか不安でたまらなかったでしょう。それでも、王太子と下に生まれた妹たち、4歳下の弟ルイは、赤ちゃん時代を乗り越えて育っていきました。
父の秘蔵っ子
シャルル5世は子供たちを可愛いがりましたが、自分が苦労して守り育てたフランス王位をいつか渡すことになる王太子はまた格別です。シャルル5世親子。「皇帝カール4世からの書状を受け取る様子」という説明を見たことが…真相はいかに。 Grandes Chroniques de France1375年~1380年頃、パリ フランス国立図書館 所蔵(MS Fr 2813, fol.480) 出典:BnF Gallica |
勉強好きで、深く語り合える友人も多かったシャルル5世の人選は、筋金入りです。
そして、クリストファー・フレッチャーという人による“Charles VI and Richard II: Inconstant Youths”という論文では、当時の女流作家クリスティーヌ・ド・ピザンが書いたシャルル5世の伝記から引用して(註49)、宮廷に出入りする者は王太子の前での下ネタ話は厳禁、破れば即追放だったと書いています。
では、我が子に期待するあまり、厳しく堅苦しい父親だったかというと、そうはならなかったようです。
上記の同じ論文ではまた、シャルル6世治世中に成立した『サン・ドニ年代記』から引用して(註66)以下のエピソードを伝えています。
ある時、シャルル5世は幼い王太子に、王家の財宝の中から好きなものを選ぶようにと言いました。
ところが王太子は戸棚の隅に吊り下げられていた剣がほしいと言います。
シャルル5世は後日改めて、王冠と兜を王太子に見せ、冠を戴くか、戦いで危険に身を晒すか、とたずねました。
王太子はやはり兜を選びました。
この返事を聞いたシャルル5世はどうしたかというと・・・
小さな子供サイズに仕立てた武具一式を、王太子にプレゼントしたということです。
シャルル5世は武芸を好まず文化人の側面が強かった人物でしたが、王太子はタタカイが好きな活発な子でした。
シャルル5世には、自分とは違うところも愛おしく思えたのだろう、そんなエピソードです。
シャルル5世の芸術政策
シャルル5世は、一族の多くがそうだったように、文学や芸術の熱心な後援者でした。同時に、彫像や絵入りの本などを通して、フランス王としての自分の姿を広めることにも熱心でした。一つ前の記事で紹介した図録“Paris・1400”には、こうあります。
Homme de communication avant la lettre, Charles V a favorisé la diffusion de sa propre image par le biais de différents supports destinés à circuler(manuscrits enluminés)ou à être vus du plus grand nombre(sculptures).
文字にも増して意思伝達の人だったシャルル5世は、流通のためのもの(装飾写本)あるいは多くの人に見られるためのもの(彫刻)という、異なった媒体の手段によって、自身のイメージが伝搬することを好んだ。出典:Paris・1400 P.28
王太子の肖像
ブルボン公の臣従礼を受けるシャルル5世。王太子は父王の服をつまんでいる。前方の坊主頭は百年戦争の雄ゲクラン将軍。1375年制作の写本挿絵の、17世紀の複製品とされる。 Miniature représentant la cérémonie de réception d'hommage d'un grand feudataire par le roi] : [dessin] 17世紀 フランス国立図書館 所蔵 出典:BnF Catalogue Général |
ラテン語の典礼書の翻訳者ジャン・ゴレインと、シャルル5世と家族。 Guillaume Durand, évêque de Mende, Rational des divins offices, traduit en français par Jean Golein 1374年、パリ フランス国立図書館 所蔵(MS Fr 437, fol.1) 出典:BnF Gallica |
シャルル5世より前のフランス王で、家族と一緒に描かれた人といえば、管理人はカペー朝11代フィリップ4世しか知りません。
フィリップ4世の場合は、弟(シャルル5世の曾祖父にあたる人物)とすでに成人した子供たちとともに描かれていました。
小さい子供を含む家族が一緒にいる絵を、何回も何回もいろんなところに描かせたという点では、シャルル5世はなかなか先取的な人物であったと思います。
後年、ヨーロッパでは王侯貴族の家族揃った絵が描かれるようになり、やがて家族写真が登場して、ハガキやカードとして庶民にも流通するようになりました。
今でも、ネット上やオークションサイトで、19世紀〜20世紀はじめに作られたロイヤルファミリーの家族写真をたくさん見つけることができます。
加えて、王太子時代のシャルル6世には、北フランスのアミアン大聖堂に彫像まであります。この像は、絵とまったく同じ服装(Hérigaut?)をしています。
ヴァロワ貴族の絵はファンシーなので、彼らが実在した人物であることをついつい忘れがちですが、こういう彫像を見ると、確かに実在していたのだと実感しますね。
北フランスのアミアン大聖堂にある、王太子シャルルの像。父シャルル5世、何人かの廷臣たち、弟ルイの彫像とともにある。 |
所蔵施設がホームページに公開していない等で掲載できないものには、以下のような画像も。
王国の平和と家族の中で
後にイザボーに一目惚れして結婚を即決したシャルル6世は、大切に大切に育てられた王子様だったのでした。大金持ちのフランス国王のお世継ぎに生まれ落ち、生まれながらに「ドーファン(王太子)」の称号と、ドーファンにちなんだイルカの紋章の正装、サン・ポール館に専用住居棟を与えられていた男の子。
父の配慮のもと、お下品な話題からはなるべく遠ざけられ、最高峰の教育と欲しいものを与えられていました。
父王が若い頃に苦労したような政治危機や陰謀に晒されることもなく、両親や弟妹たちと家族団欒する。そんな幸せな幼少期を送っていたのです。
シャルル6世は大人になっても、人々を喜ばせるために、よくよく計算もせず大盤振る舞いばかりしていました。それは、自身がそのように育てられたからかもしれません。
こんなところにも王太子。 Le songe Veger 1378年、パリ |
お坊っちゃまが直面したもの
しかし、優しい母を、小さな可愛い妹たちを、偉大な父王を、シャルル6世は早くに失わなければなりませんでした。24歳での精神疾患をこの出来事と結びつける考え方は、当時から現代に至るまで、一般的ではないようです。青年時代のシャルル6世は、そんなことを感じさせないくらい明るく、堂々と振る舞っていました。精神病は突発的なものとされ、その原因は、遺伝体質や若さゆえの不摂生のせいにされます。
確かにそうだったかもしれません。
でもその根底には、シャルル6世が幼時以来ずっと抱えてきた、大きな喪失感があったように思います。
シャルル6世の病については、たくさんの研究がなされているので、またそちらも見ていきたいと思います。