ボンヌの婚約遍歴
2008年のエリシュカの伝記“Eliška Přemyslovna - Královna česká”P.87あたりを中心に、Jitkaの行方を追うと、以下のようになります。
まず、1322年の春、結婚を前提に7歳でマイセン辺境伯の家庭に引き取られ、テューリンゲンのヴァルトブルク城へ。
14世紀頭の中央ヨーロッパ。 ボヘミアに隣接する左側の青紫部分が、マイセン辺境伯領とのこと。 |
彼がマイセン辺境伯に対して、より魅力的な持参金とともに自分の娘を提案したため、Jitkaとの婚約は破談。Jitkaはボヘミアに帰って、王城近くの聖イジー修道院に入りました。
ここはかつて母親エリシュカも育った場所で、一時期エリシュカも合流して一緒に過ごしたと思われます。
3年後の1326年春、父親が新しい婚約を整え、Jitkaは11歳で初めて父の故郷ルクセンブルクへ。お相手は、ルクセンブルクの隣国バール伯領の跡取り息子でした。
しかし再度の破談のため、今度はルクセンブルクの修道院に入ります。
その後も、ヨハンはバイエルン公、オーストリア公と、次女の結婚相手を探し続けるものの、政治的な理由からローマ教皇の反対に遭ったりして、Jitkaの結婚はなかなか成立しませんでした。
ヨハンは下手な鉄砲数撃つタイプだった?
同じ戦好きの騎士でも、たった一つの縁談にさえ予防線を張りまくっていたイザボーパパとはえらい違い。
とはいえ、婚約は個人の一存で決まるものではなく、先のことも分からないことで、ましてや政略結婚は国や家門の存続にかかわることで、難しいことなのでしょうね。
Jitkaとしては、そのまま修道女になるのか、いつかまた父親が新しい縁談を持ってくるのか、明日も分からないのは不安だったでしょう。
フランス王太子の妃
そうこうしているうちに時は流れて、1331年になると、ヨハンはフランス王フィリップ6世との交渉を開始。翌年、ついにJitkaの旦那様に決まったのが、フィリップ6世の世継ぎジャンでした。
このときJitkaは17歳、ジャンは13歳。
奇しくも、母親と同じく4歳年上の姉さん女房になりました。
祈る寄進者たちを表した石彫。所蔵しているメトロポリタン美術館の公式サイトによれば、 ヴァロワ朝初代国王フィリップ6世(中央) 王様の長男ジャン、もしくは末息子フィリップ(左) およびフィリップ6世の2人目の王妃ブランシュ(右) と推定されている、とのこと。 Queen, from a group of Donor Figures including a King, Queen, and Prince 1350年頃、フランス 大理石(彩色と金メッキの痕跡が残る) メトロポリタン美術館 所蔵(17.190.388) 出典:メトロポリタン美術館 |
結婚の際にフォンテーヌブローで結ばれた条項には、120,000フローリンの持参金とともに、イングランドとの戦争の際にはヨハン自身もフランス軍に加わること等々、戦争が起きた場合のことが細かく取り決められていたといいます(QUEENSHIP in MEDIEVAL FRANCE,1300-1500 P.15より)。
大きな出費となっても、フランス王国に忠誠を捧げているヨハン父さんとしては願ってもないことで、大喜びだったのではないでしょうか。
ヨハンの親フランス政策と、Jitkaの婚約遍歴を考え合わせると、ボヘミアの隣国マイセンからジリジリとフランス王国に近づいているため、実はずっと狙ってたのでは?とも思ってしまいますね。
修道院で暮らしていたJitkaはこのとき以来、フランス王国の世継ぎの妻・ノルマンディー公妃となりました。
フランス人にとって謎の名前Jitka(イトカ)は、もともとの意味「良い」をフランス語に翻訳した、「Bonne(ボンヌ)」と呼ばれるようになりました。
お父ちゃんの決めるままに故郷から遠く離れて、生まれ持った名前まで変えられてしまって。
Jitkaが何を思っていたのかは、伝わっていません。
修道院から宮廷生活へ
静謐な修道院から、華やかながらもいろいろな思惑が渦巻く、百年戦争前夜のフランス宮廷へ。ボンヌが君臨し司ることを期待されていた宮廷生活は、それまでの修道女たちとの暮らしとはかけ離れていて、そこに向かっての準備ができていなかっただろうと書いてるのは“FEMALE BOOK COLECTORS IN THE VALOIS COURTS”というお話(“Woman, Manuscripts and Identity in Northern Europe,1350-1550”内)です。
確かに、彼女がどこまでフランス語が話せて、どこまで宮廷のお作法に通じていたのか、微妙なところです。
あのヨハンが、尊崇するフランス王家にそんな無防備な娘を送り込むかなあ?事前に人を遣わしてしっかり貴族教育してたでしょ、という気もするし、そんなことはしないような気もする。
ボンヌの数少ないエピソードに、彼女がイケメン貴族のウー伯ラウル・ド・ブリエンヌに誘惑されて不倫関係にあったという、噂レベルのものがあります。
ボンヌ没後の1350年、ラウルが理由不明のままいきなりジャン2世に処刑されたのは事実で、この死刑執行の理由が、ジャン王の嫉妬によるものでは?という憶測のもの。
このエピソードに触れている前掲書では、ラウルが当時フランスと敵対関係にあったサヴォイ王国に忠誠を誓っていた貴族だと書いています。
ラウルの処刑が、まったく別の理由からであっても。
不倫が事実でなくとも。
ボンヌがあまり世慣れしていない女性だったのだとすれば、近づいて国の重大機密を盗んでやろうとか考えるヤカラはいたかもしれませんね。
それよりも、ボンヌの方が旦那様を愛していたように思える記録はあるとして、以下のエピソードを紹介しています。
Nous savons du moins que Bonne était attachée à son mari au point de s'inquiéter d'être sans nouvelles de lui au moment de la campagne de Bretagne, à la fin de 1341, et que Philippe VI dut demander à son fils d'écrire à son épouse pour la rassurer.
我々は少なくとも知っている。ボンヌは夫にとても愛情を注いでいたため、1341年末のブルターニュ遠征の際、夫から何の連絡もないことを心配し、フィリップ6世は息子の妻を安心させるために、手紙を書くよう息子に頼まなければならなかった。出典:Société politique, noblesse et couronne sous Jean le Bon et Charles V P.45
「ボンヌさんを心配させるんじゃない。手紙くらい書いてあげなさい」といったところですかね。フィリップ6世は優しいお義父さんのようです。
出典は?と見ると、“Lettres closes... de Philippe VI, nº 143, p. 162-163.”とあるので、フィリップ6世の書簡集でしょうか。
めちゃくちゃ気になります。
息子ジャン(後のジャン2世)は、百年戦争で自国フランスに大ダメージを与えた王様としてあまり評判芳しくない人物ですが、ボンヌは彼のことが大好きだったのかも。
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